昭和30年から経済成長とともに日本の自動車は急速に普及した。とはいえ、まだ庶民には高嶺の花。そこで乗用感覚のライトバンや手軽な軽商用が重宝された。仕事に使うライトバンに乗ってピクニックに行った時代だったのだ。昭和30年代~40年代懐かしのライトバン&軽トラックをご紹介!(本稿は「ベストカー」2013年6月10日号に掲載した記事の再録版となります)
文:片岡英明/協力:カタログで見る昭和30年代の車
■昭和の発展期に輝いていたライトバンと軽トラック
終戦後15年ほどの間、働くクルマの代名詞はオート3輪車だった。
優れた取り回し性と広い荷室スペースを武器に貨物の運搬に重用されている。オート3輪車とそれをダウンサイジングした軽自動車規格の軽3輪車は日本の街々の風景を大きく変えた。
1955年くらいからオート3輪車に対抗して軽自動車が数多く誕生する。
当時の軽自動車の規格は全長3m、全幅1.3m、排気量は360ccだ。
乗車定員は4名までOKだが、後席は狭くて座れたものではない。しかも上級の登録車と同じように、乗用タイプは高価なぜいたく品だった。庶民にとっては高嶺の花だったから、需要が見込めたのは安価で機動性の高い商用車だ。
その当時、軽自動車は車検がなかった。また、スクーターの免許で乗ることができる。その後、この特権はなくなったが、16歳で取得できる軽自動車免許が登場した。
だから各メーカーは、エントリーユーザーを狙って軽商用車を企画し、発売に移した。
スズキはスズライトを送り出したが、販売の主役は横開きのバックドアを取り付けた、ライトバンのスズライトSL型だ。日本軽自動車はニッケイタローを発売している。このほか、オートサンダルやテルヤン、コンスタックCL型ライトバンなどが登場する。
その多くは、軽オート3輪車で成功した中小企業が手掛けたものだった。が、ほとんど失敗に終わっている。充分な設備投資にかける余裕がなかったし、走りの性能も実用性も低かったからだ。
今につながる商用車が誕生するのはスバル360が登場してからである。派生モデルのカスタムや、サンバーが市場を開拓し、メジャーにした。
モーターショーにパブリカが参考出品された1960年は「マイカー元年」だ。
乗用車の生産台数は16万台と、前年比2.1倍の伸び。好景気の波に乗り、建設ブーム、建築ブームが到来し、商用車の販売台数も一気に増えた。サラリーマンが月賦(ローン)でクルマを買えるようになってきたのもこの時代だ。
乗用車をベースにした小型トラックやライトバンも続々と登場する。カタログには「貨客兼用」と謳い、乗用車志向を強く打ち出した。トヨタはクラウンとコロナのライトバンたるマスターラインとコロナラインを生み出し、パブリカにもライトバンを設定している。
1961年に小型車の規格が変わったこともあり、日産やマツダも乗用車ベースのライトバンを意欲的に投入した。
1970年までの10年間に、東京オリンピック、超高層ビル、大阪万博などが続いたため、建設ラッシュになる。ライトバンや軽1BOXは、中小企業の小口配送などに活躍していたが、機動性の高さが買われ、建築現場でも使われるようになった。
機能と個性を競い、成長したのがライトバンと軽商用車だ。
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■「もはや戦後ではない」 生き生きしていた昭和30年代
1955年、日本の経済水準が戦前の1934~1936年を超えたことから、翌年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記され、流行語になった。
1955年から始まる高度経済成長とともに、日本の自動車産業も急成長、世界トップクラスに発展していく。1955年にクラウン、1957年にスカイライン、1960年にハイゼットが発売された。いずれも現在に至るまで継続して生産されている息の長いモデルだ。
(写真、内容はすべてベストカー本誌掲載時のものです)
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