クルマと道路は切っても切り離せないもの。交通ジャーナリストの清水草一が、毎回、道路についてわかりやすく解説する当コーナー。今回は廃線が発表された東京高速道路KK線について考察していく。
文:清水草一、写真・資料/東京都、フォッケウルフ
■廃止の理由は「いらなくなったから」なのか?
首都高速道路株式会社が、2025年4月上旬をもって、KK線(東京高速道路株式会社線)の廃止を発表したことは、すでに当サイトでもお伝えした。
鉄道の廃線は珍しくないが、高速道路の廃線は日本初の出来事だ。しかもそれがローカル路線ではなく、銀座のど真ん中なのだから、普通ならありえないだろう。
さらには、このKK線、実は日本最初の高速道路なのである。開通は1959年。首都高の1962年、名神高速の1963年に数年先んじている。
いったいなぜ、日本最初の高速道路・KK線は、廃止されることになったのか。
その理由について首都高側は、「日本橋区間地下化に加えて、新京橋連結路を整備することで、2035年度(予定)に新たな都心環状ルートを整備します。この都心環状ルートの再編により、東京高速道路株式会社の管理する東京高速道路は廃止され、歩行者中心の公共的空間として再生・活用されます」とリリースしている。
つまり、いらなくなったから廃止するというニュアンスだが、事情はもう少し複雑だ。
■建築家のロマンとして誕生
KK線のベースとなったのは、戦後間もない1950年に東京都に提出された、「スカイウェイ・スカイビル」構想だ。西銀座の外濠に、長さ1.2kmの帯状の12階建てビルを建て、ビルの上に高速道路を通すという、夢のような計画だった。高速道路は最上階ではなく、2階のテラス部分が予定され、新橋から南側は、国鉄の線路上に高架道路を建設して羽田空港まで延ばすとなっていた。
提案者は三菱地所の社長・樋口実氏だったが、この斬新な構想の裏には、当時、東京都建設局長だった建築家の石川栄耀(ひであき)氏がいたらしい。石川氏は理想家肌のロマンチストで、高架道路下の有効活用と、賃貸収入による維持管理費の捻出という一石二鳥を実現するこの方式を、戦前から温めていた。戦後の復興期で極度の財政難に喘いでいた政府や東京都にとってもありがたいプランだった。
その後計画は、12階建てから2階建てに縮小されたうえで実現し、1959年6月、土橋―城辺橋(現在の西銀座JCT付近)間約1kmが、最初の供用区間となった。
KK線はあくまで民間企業が造った無料の高速道路であり、首都高とはまったくの別組織だが、その後3ヶ所で首都高と接続され、バイパス路として有効活用されてきた。
■この景観を味わうなら今しかない
東京高速道路株式会社は現在も健在で、銀座1丁目から8丁目にかけて、『銀座コリドー街』など高架道路を屋上とする全14棟のビルは、店舗、オフィス、駐車場として利用されており、その賃貸料によって、道路が維持・管理されている。
ただ、高架下が店舗のため、道路の大規模な改修は難しい。そもそもこの会社にとって、屋上の道路はなんの利益も生んでおらず、維持管理費が出ていくだけだ。開通から65年間、料金無料で開放されてきたが、走行車両の振動もあり、いずれは建造物としての限界もやってくる。
KK線は、屋上を道路として開放することを条件に、都から土地の利用や建物の建設を許可されているので、勝手に道路を廃止することはできないが、2年前、都が遊歩道化を決定したことで、すんなりと廃止が決まった。
KK線が、首都高ネットワークにとってどうしても必要な路線なら、税を投入するなどして、道路を残す選択肢もあっただろうが、それほどでもなかったのも、廃止の理由としてあげられる。KK線新橋付近の断面交通量は、平日平均で約1万5000台/日。並行するC1(都心環状線)の約10万台/日に比べると、数分の1にとどまる。大型車も通行禁止だ。
実際のところKK線は、だいたいいつも空いている。まるで首都高(KK線は首都高ではないが)のエアポケットで、走るたびに不思議な感覚に襲われる。
東京を舞台にしたアカデミー脚本賞受賞映画『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年制作)は、主人公が乗る運転手付きのセンチュリーが、KK線を経由して空港に向かう場面で締めくくられている。同映画のソフィア・コッポラ監督も、KK線の非現実的な景観に惹かれたのだろう。
そんなKK線を走れるのも、あと半年間だ。東京の隠れた名所を、いまのうちに味わっておきたい。
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