トヨタ2000GTは当時の時代背景から考えると、性能もスタイリングも飛び抜けた存在。それが、半世紀以上を経たこんにちの目で見ても、決して旧さを感じさせないところが素晴らしい。いかに、理想に近い形でつくりあげられたものか、その過程までを振り返ると、いまさらに感動させられてしまうのだ。
文、写真/いのうえ・こーいち
■少数精鋭のプロジェクト
いかに少量生産とはいえ、市販されるプロダクション・モデルになる予定ではなかった。
トヨタ2000GTのそもそもは、レースを主目的に置いた高性能スポーツカー。1963年に「日本グランプリ」がはじまって以来、日産やプリンス自動車に遅れを取っていたトヨタが、レースで名を挙げることを目標にまったく新しいスポーツカーを企画する、というものであった。
量産モデルとちがって、デザイン、エンジン、足周りのエキスパートひとりずつという、ごくごく少人数のプロジェクト・ティーム、開発期間も短期間に集約する、という目標が与えられた。
ボディ・スタイリングもほとんどひとりのハードワークで描かれていた。そのデザイナーで野崎 喩さんに話を伺ったことがあるが、氏はいち早く米国のアートスクールに派遣されるなどして、日本より遥かに進んでいた本場のクルマ事情を目の当たりにしていた。
ちょうど発展期に掛かろうとしていたわが国のクルマだったが、世界と較べたらどれほどの差があるものか、痛いほど思い知った、という。
その米国滞在中に描いた、理想のクルマ、というようなスケッチが下敷きになって、トヨタ2000GTは形づくられているのだった。
もちろんそのスケッチ自体が優れていたこともあるのだが、それを、量産車ではない、少人数のプロジェクトによる尖った個性がだいじにされていた、などという幸運が後押しして、あの「奇跡のフォルム」に至った。
■レースカーのつもりが高性能GTに
足周りやエンジンなどのメカニズムも同様で、プロジェクト・ティームに選ばれたそれぞれのエキスパートが存分に腕を奮った。
ロータス・エランのそれに似ているといわれる鋼板バックボーン・フレームも、じつは独自のアイディアで、使用板厚などのちがいはもともとの狙いからちがうことも伺った。
そのフレームに四輪ともウィッシュボーン+コイルのサスペンションが付き、前方にはヤマハの協力でまとめられた直列6気筒DOHCエンジンが載る。
1964年の秋から暮に掛けて、2ヶ月で企画設計から1/5モデルまでを完成。1年後の1965年の東京モーター・ショウではプロトタイプが展示された。そこからの展開はまったく「ひとり歩き」だった、と聞いた。
ショウでの反響の大きさ、発表されたプロトタイプの出来栄えなどから、少量生産の本格的GTとして市販化されるとになったのだ。そのPRも兼ねて「スピード・トライアル」や映画「007シリーズ」の「ボンドカー」にも選ばれた。もちろん第3回日本グランプリではプロトタイプ、P380につづき入賞を果たした。
こうして、唯一無二の憧れのクルマ、になっていったのである。
■クラウン3台分の価格
トヨタ2000GTは1967年5月に発売がアナウンスされた。価格は、当時の高級サルーン、クラウンやフェアレディ2000などの約3倍、238万円というプライスであった。その価格がよく話題にされたりするのだが、じつはそれでも手づくりボディ、高度なスペックのトヨタ2000GTはその価格でも赤字だった、という。
こんな見方もある。当時の輸入車の価格と比較したら、なんと安価なことか、と。6気筒、2.0Lのポルシェ911は発売当初の輸入価格は435.0万円、つまりトヨタ2000GTのほぼ倍、だった。スペックやつくりのよさからしたら、ホンの一部のヒトからではあったがなんと割安だったか、といわれたりもした。
1969年9月にマイナーチェンジされて後期型になったが、じつは後期型がオリジナルで、発売時、サイズの合うドライヴィングランプが入手できず、径の大きなランプのスタイルでデビュウしたのだ、という。
憧れの頂点、不朽の名作としてよく知られているトヨタ2000GTを裏話的に紹介してみた。
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