バスから見える歴史の風景をたどるこのコーナー。今回は横浜市営バスの誕生を紐解く。

 日本郵船氷川丸が係留されている山下公園の歴史は、1923年に発生した関東大震災まで遡る。大震災によって横浜市街には大量の瓦礫が残されたが、その瓦礫を処分するため海に埋め立てて造成されたのが山下公園だ。

 関東大震災は横浜市街を走る市電にも壊滅的被害を及ぼしたが、市電を復旧させるには時間と多額の費用がかかることから、市電の補助機関としてバスの運営に乗り出すことになった。こうして誕生したのが横浜市営バスである。

(記事の内容は、2020年3月現在のものです)
執筆・写真(特記以外)/諸井 泉
取材協力/クラブ氷川丸、日本郵船歴史博物館、
横浜市交通局八聖殿郷土資料館、横浜都市発展記念館
※2020年3月発売《バスマガジンvol.100》『あのころのバスに会いに行く』より

■7路線、30.2km、140名の乗務員で開業した横浜市営バス

日本郵船氷川丸が係留されている山下公園横をゆく横浜市営バス

 横浜市営バス設立は1923年の関東大震災に端を発するが、横浜市電気局(現横浜市交通局)は市電の壊滅的な被害からの復旧に追われ、震災により郊外へ移っていった市民の新たな交通需要に対応することになる。

 さらに1927年には横浜市に隣接する2町村7村が横浜市に編入され、急拡大した市域の足を確保する必要があった。そこで電気局は市電の補助機関としてバスの運営に本格的に乗り出すことになった。

 横浜市営バスは1928年市電の浅間町車庫の一部をバスの仮車庫に転用して正式に営業を開始した。開業当時は井土ヶ谷線、保土谷線、小港線、根岸線、間門線、三ツ沢線、日野線の7路線で路線の総延長は30.2kmであった。

 料金は1区間7銭、運転手・車掌合わせて140名、クリーム色に青帯塗装の14人乗りフォードA型バス30台体制にて運行を開始、1日の利用客数は1万人弱であった。

 関東大震災当時、横浜港には多くの船舶が停泊していたが震災被害を免れた船は救援活動を行うこととなった。救援活動船舶の中に日本郵船の貨客船三島丸が新港埠頭に接岸していたが、ただちに救護活動の前線基地となった。

 船には水や食料、通信設備、救護手当を行える場所があったからである。その後、船内には横浜税関と公務部の仮事務所も置かれたという。

■関東大震災からの復興に向けて走り続けた市バスの勇姿

日本郵船三島丸の絵はがき(笠原喜保氏所蔵)

 三島丸に関する資料は少なかったが、その実像を探るべく写真を探していたところ、氷川丸で真ちゅう磨きなどの維持補修や、船内案内のボランティア活動をしている「クラブ氷川丸」の笠原喜保氏が所有する約1500枚に及ぶ戦前戦後の日本郵船の絵葉書の中から、三島丸の絵葉書を探し出して見せてくれた。

 JR根岸駅から横浜市営バスに乗り、本牧市民公園で下車して小高い丘の上に建つ八聖殿郷土資料館を訪ねた。ここを訪ねたのは三島丸の鐘が現存していると知ったからである。三島丸の鐘は普段は非公開であるが、倉庫で保管されているという鐘を特別に見せて頂いた。

 大震災当時、新港埠頭に停泊していた三島丸は約3000人にのぼる被災者を救助し、約500名を船内で治療したという。

 当時は西風が吹いており地震によって発生した大火が街を覆い、横浜港にも迫っていた。その大火かから逃れてきた人々を、三島丸は操舵室から盛んに鐘を鳴らして救援船であることを知らせて船に収容、港の沖合へと脱出したのだった。

三島丸の鐘について説明頂いた八聖殿郷土資料館の相澤竜次館長

 1934年、老朽化により三島丸は解体されたが大震災救援のシンボル的存在であるこの鐘が横浜市に寄贈され、震災記念館に納められたという。

 しかし、当時は戦局の悪化と極度の物資不足により政府による金属回収令がだされ、この鐘も拠出されてしまう危機が迫っていた。そのためこの鐘が震災記念館関係者によって密かに持ち出され、この倉庫に隠されたのである。

 この鐘をよく見ると無数の傷跡が残されているが、相澤館長によるとこの無数の傷跡は、鐘をハンマーなどで叩いて鳴らした時についた傷ではないかとのことだった。

 この無数の傷跡を見ていると、関東大震災と三島丸の被災者救出劇、そして被災地の中を復興に向けて走り続けた横浜市営バスの雄姿が浮かんで来るようだった。

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