5月12日、メジャーリーグでは全選手が「ピンク色」を身につけて試合を行い、「母の日」を祝しました。帽子やユニホームはもちろん、バットやスパイクまでピンクでそろえて、試合前には自身の母親をフィールドに呼んで、思い思いに母親へ感謝とリスペクトを表現していました。メジャーリーグの公式ホームページでは、そんな母の日の全試合を無料配信するという粋なはからいもあって、至るところで母と子のほほえましい姿を見ることができました。
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話は変わって、日本では少子化が深刻な事態になっています。2023年の出生数は過去最少の約73万人まで落ち込みました。予想を上回るペースで進んで、歯止めが掛かる気配もありません。人工知能(AI)による自動化とは無縁のスポーツですので、人口減少はそのままスポーツの根幹を揺るがす脅威となります。
現時点でもほとんどのスポーツで競技人口の減少が続いていますが、今の16歳人口が約110万人なので、15年後は高校生になる人口が約34%、実に37万人もの母数が減少することになります。より本質的な解決に向け、学校スポーツではシーズン制を導入するなど、複数の部活を掛け持ちできるような仕組みや文化づくりが不可欠だと思います。
政府ももちろん最重要課題として、「異次元の少子化対策」に取り組んでいます。ただ、少子化対策の担当大臣が設置されて以来、数兆円規模の予算を投入しているようですが、出生数の減少は止まる兆しすら見えません。道路や建設物と違って相手は生身の人間。予算配分だけでは解決できないことが明確になってきました。
僕は2年前から米国を生活の拠点にしていますが、少子化が社会問題である日本と比べ、米国における「妊娠、出産、子育て」はあくまでも日常生活の一部であり、母の日のメジャーリーグのように、そもそも人々のマインドの中にそれを支える文化があるように感じています。
米国では日常生活の中で子どもたちを受け入れる温かな雰囲気を感じます。たとえば、妊婦さんはまるでスター扱いで、「いつ生まれるの?」「そのおなかの形は男の子でしょ!」という具合に、街中の至るところで気に掛けてもらえる存在です。おしゃれなレストランでも、ほぼ確実に子ども用の椅子が用意されています。
また、室内で赤ちゃんが泣き出してしまったとき、周りの人から「なんて美しい声なの。もっと聞かせてほしいわ!」などというポジティブな言葉が掛けられている光景を、何度となく目にしてきました。特に子育てを経験した女性同士は、人種や年齢に関わらず「お母さん同盟」の仲間。まるで数年来の友人かのような心の通ったコミュニケーションをします。
一方であくまで主観ですが、日本では「妊娠、出産、子育て」は「修行」というような空気を感じます。まず、結婚や出産に対する周りの期待から始まり、妊娠中には体重制限のプレッシャーがあり、自然分娩を推奨する空気があり、出産後の1カ月は外出制限があります。どれも米国にはない雰囲気や習慣です。
産後もベビーカーでの移動は「周りに迷惑を掛けている自覚」を持たねばならない空気や、室内で赤ちゃんが泣き始めたら周りに頭を下げながらそそくさと外に出ないと、「非常識な母親ね」と陰口を言われそうな雰囲気を感じます。レストランはといえば、子ども用の椅子以前に、子連れでの入店禁止のお店がとても多いです。
まるで「困難を乗り越えることが母親」という静かな圧力に包まれているかのようです。また、年上の母親経験者とは師弟のような上下関係を感じます。
もちろん、個人差や地域差はあるので、日本と米国という対比は大ざっぱすぎるとは思いますが、僕個人の実体験であることも紛れもない事実です。当たり前ですが、メジャーリーグの母の日の取り組みも、政府の政策でもなんでもないわけです。
そんな違いを目の当たりにして、自分なりに「妊娠、出産、子育て」の本来の姿に興味がわき、少し掘り下げて調べてみました。見えてきたのは、人間という動物の特殊性です。
まず、人間は他の動物と違い、母ひとりで出産することができません。人間たるゆえんの「脳」は猿の約3倍、1300グラムもの大きさです。女性の骨盤は、大きな頭の出産に適応するため広くて浅い形をしていて、このような骨盤の性差は人間のみが持つ特徴です。
それでもなお、大きすぎる頭蓋骨を柔軟に変化させることで胎児は狭い産道をなんとか通り抜け、ひとりでは立つことも母乳を飲むこともできないほど未熟な状態で世に出てくるのです。つまり、人間は出産と育児が極めて困難な動物である、ということです。
事実、発見される古代の化石から、多くの若い女性が出産で命を失っていることが分かっています。すなわち、大きな頭脳を持つことで「人間」となった我々は、母体への過度の負担という代償の上に成り立っているということ。そして、そこから推察される大事なことは、お母さんが出産で命を落としても、赤ちゃんは「群れ」のなかで大切に育てられてきたということでしょう。
ここからはざんげになってしまうのですが、かつての自分は「どこのお母さんもやってる普通のこと」という薄っぺらい認識だったし、「自分は精いっぱい仕事をするのが役割」という考え方でした。でも、現実は仲間とランチを楽しみ、接待と称したどんちゃん騒ぎもたくさんやりました。何より適度に休憩するなど、マイペースで日常を送れます。
ところがお母さんの場合は、子どもはオムツを替えた瞬間にうんちをしちゃうし、落ちているものは何でも食べちゃうし、子どもが寝たところでいつ起きるかドキドキして少しも心が休まる暇もなく、それが24時間、年中無休で続きます。自分のペースで生活できない予測不能な状態を毎日、数年間も強いられる。そんな過酷な仕事がほかにあるでしょうか?
もちろん、子育てが得意なお母さんもたくさんいると思います。でも、そんな「理想のお母さん像」が勝手に設定されていることも、妊娠、出産のプレッシャーでしょう。そもそも命のリスクを伴う出産です。「おなかを痛めて産む」ことに優劣の価値観が潜在する実態も見つめ直すべき空気感だと思います。
戦前の家父長制を基礎に、戦後に定着した核家族が相まってそんな不条理な状態をつくり、僕のような偏った思考の父親を量産したのだと思います。しかしながら、そんな生活習慣はたった数十年の歴史でしかなく、とても日本的な文化とはいえないでしょう。戦後の混乱とベビーブーム、急激な高度経済成長に必死に対応している中で、心のゆとりがなくなり、母親に過度なしわ寄せがいく社会になってしまったのでは、と思います。
その上で、自身の経験と反省を踏まえ、「子どもは社会全体で産み、育てるもの」だと思います。そんな思いやりのある社会づくりが政策以前に最も重要ではないか、と思うようになりました。
社会の温かい空気感があれば、無痛分娩を肯定する風土ができたり、夫以外の家族や親戚の育休が広がったり、介護職同様にベビーシッター職が認知され拡充するなど、より真心のこもった対応や対策が自然と成立していくのでは、と思います。同時に、「出産は命懸け」という認識を深め、地球の未来を支える「母親」に、一層の感謝とリスペクトを持つ社会にしていくべきだと思います。
子どものころ、母親が一瞬見せた厳しい表情の裏側に、どれだけの非人間的な慣習が潜んでいたのだろう。年子の姉を後ろに背負い、僕を抱っこして、毎日買い物に行っては重い荷物を持ち帰り、子どもを遠ざけながら包丁や火を使ってご飯の準備をする。その間も僕も姉も後ろで前で泣きわめき、とにかく死にもの狂いの24時間だったことだろう。
まずは僕自身が過去をしっかりと振り返り、反省し、至らなかった点を謝罪し、すべての母親をリスペクトし、感謝し、何かあれば最高の笑顔で妊婦さんやお母さんのお手伝いをできる人であろう。観客席でこだまする少年少女たちの大歓声も、近所の公園ではしゃぐ子どもたちの声も、レストランで大泣きする赤ちゃんの泣き声も、すべては「未来をつくる美しい音」です。
人目をはばからずに母親とハグをするピンク色のユニホームを身にまとったメジャーリーガーたち。そんな姿を見て、米国の少年少女たちは母親への思いを新たにするのだろう。少子化は人ごとではなく、自分自身に内在する問題だと実感させられます。同時に、日本のスポーツ界にはまだまだやれることがたくさんある、日本の少子化問題はたくさんの「伸びしろ」がある、そんなことを感じさせてくれた今年の母の日でした。
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