ピオンさんがカエデの樹液をじっくり熱すると、水蒸気とべっこう飴のような甘い香りで小屋中が満たされた

おとぎ話のような世界は、米北東部バーモント州の森にあった。緑の屋根に銀色の煙突が載った小屋の中、豊かなあごひげを蓄えたロジャー・ピオンさんがメープルシロップを作っていた。

たった1つの原料、糖分を含んだカエデの木の樹液を40〜50分の1に煮詰めると「黄金のしずく」ができあがる。昔ながらの製法にこだわるピオンさんが廃材を利用した薪(まき)をくべ、火加減を調整しながら大きな平底鍋を時々かきまぜて水分を飛ばしていく。しばらくすると、小屋中が水蒸気とべっこう飴(あめ)のような甘い香りで満たされ、どこか懐かしい、心地よい空間に変わった。

カエデの樹液からシロップや砂糖を作り始めたのは、米北東部からカナダ南部に古代から暮らす先住民族たちだ。300年以上前、欧州から来た入植者に先住民アベナキ族が伝えた様子がフランス人宣教師の記録などに残っている。

アベナキ族の血を引くというピオンさんにとって、シロップ作りは「家族の伝統」だ。5歳ごろ、樹液を集めるためにバケツの取り付けを手伝い始めて半世紀以上がたつ。今は多くの農家同様、木につないだチューブで樹液を採取している。

ピオンさんが作ったシロップ。濃厚な風味で、カリウムやカルシウム、マグネシウムなどを豊富に含む

4月末、今シーズン最後のしずくを味わった。濃い茶色のトロリとした液体を口に含むと、しっかりとした甘みとキャラメルのような風味が広がる。芳醇(ほうじゅん)な余韻は、驚くほど長く続いた。

メープルシロップの生産はカナダが世界の7〜8割を占めて圧倒するが、残りはほぼ米国で作られている。そのうちの半分、つまり世界の1割超はバーモント州産だ。州内には大小3000前後の生産者がいるとみられる。

仲間の作り手に「レジェンド」と慕われるのはグレン・グッドリッチさんだ。高品質のシロップで数々の賞を受けている。おいしいシロップの秘訣は新鮮な樹液を使うこと、衛生管理の徹底、そして長年の経験で培った加熱の技。さらにカエデの健康を保つことも欠かせないという。24平方キロメートルの森の雑草を除き、剪定するのは最も手間のかかる作業だ。「木のお世話をすることで、樹液を分けてもらっているのです」

後進の支援もするグッドリッチさん。10万本以上の木に管を張り巡らせて樹液を採取し、工場へ運ぶ

バーモント産シロップには透明度など厳しい基準がある。糖度は他の多くの地域より高く設定され、濃厚だ。さらに、色で4種類に分けられる。シーズン初期の樹液で作ると薄い金色で終盤に近づくほど濃くなるものの、どんな色になるかは完成するまで分からない。

グッドリッチさんのメープルシロップ4色を比べた。最も明るい「ゴールデン」は軽やかでキレのある甘さ。「アンバー」「ダーク」と色が濃くなるにつれてキャラメルの風味が増し、「ベリーダーク」はまるで燻製(くんせい)のよう。小売りなどを担当する妻のルースさんは「砂糖に置き換えてどんな料理にも使える」と話す。菓子のほか、ドレッシングやトマトソースの隠し味にもいい。パンケーキやヨーグルトでそのまま味わうには「ゴールデン」、バーベキューソースなど味の濃い料理には「ダーク」が合う。

グッドリッチさんは森の健康や樹液の鮮度にこだわり、高品質のメープルシロップを作る

ミネラル豊富な「黄金のしずく」の需要が高まる一方、気がかりもある。世界的な気候変動の影響だ。

シロップを作る樹液を採取できるのは春で、夜の気温が氷点下、昼は零度以上になる時期だ。シロップ作りに使えるカエデの樹種のうち、樹液の糖分が多く、中心品種とされるサトウカエデは繊細。生育に適した気温や土壌の湿度の範囲が極めて狭く、樹液量は大雨や干ばつ、季節外れの高温などに大きく左右される。そのためカナダの生産の9割を担うケベック州はメープルシロップを石油のように備蓄している。

バーモントでは、現時点では最新技術の導入で異常気象の悪影響を軽減できている。自然に近い食品を求める消費嗜好を追い風に、同州の生産量は2023年に約770万リットルと20年で4倍超に増えた。

グッドリッチさんの2つの生産拠点のうち、最新鋭の施設を訪ねた。建物の中には、たくさんの管がつながる銀色の機械が並ぶ。逆浸透膜装置で樹液の水分の90%を取り除き、加熱時間を大幅に削減。真空ポンプを使って樹液がスムーズに出るよう促し、木の持つ生産能力を無駄なく生かす。15年以降、徐々に扱える量を増やし、今年は12万5000本のカエデから1136万リットルの樹液を集めた。

グッドリッチ・ファームの最新の樹液加熱装置。90%以上の水分を除いた樹液を、蒸気を利用して素早く熱する

今は技術力で影響を抑えられているが、温暖化が進めば外来生物なども脅威となり、生育も難しくなる。バーモントでは例年3〜4月だった樹液採取時期が年々早まっている。カナダより南にあり、温暖化の懸念はより大きい。

バーモント大学のカエデ専門家、マーク・イセルハートさんは「樹齢や植物の種類の多様性を保てば森林の回復力を高められる」と話す。樹液の糖分は低めだが、温暖な気候に強く、どんな土壌でも育ちやすい品種、レッドメープルを増やす必要もあるかもしれない。

気候変動を抑える取り組みも重要と、ピオンさんは妻のドナさんとともに炭素をため込む土壌改良材を廃棄物から作る事業を始めた。グッドリッチさんも樹液から分離させた純水を、石を敷き詰めた溝を通してミネラル分を加え、自然に近い状態にして排出する。生産者たちの森を守る意識は強い。

メープルシロップの起源について、アベナキ族の民話がある。

昔、創造の神は人間のために木から甘い汁が溢れるようにした。あるとき神様のお使いグルスカベが人間界の様子を見に行くと、村は荒れ、人々は木の脇に寝そべって樹液を飲み続けていた。怒った神様は樹液を水で薄め、春の一時期だけ流すよう変えてしまった。

今グルスカベがやってきたら、私たちに黄金のしずくを残してくれるだろうか。

ライター 高橋恵里

田中克佳撮影

[NIKKEI The STYLE 2024年6月16日付]

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