「企業」とは何か?
『世界を変えた8つの企業』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)そもそも企業(コーポレーション)とは、具体的に何を指すのか。
事業体と同義語のように使われることも多いが、企業と事業体とは同じではなく、ある決まった形態や構造をもつ、特定のタイプの事業体のことを企業と呼ぶ〔英米における「コーポレーション」と日本語の「企業」とはイコールではないが、本書では、「企業」という語は基本的に、ここで定義されている「コーポレーション」の意味で用いる〕。
企業という概念は共和政ローマで初めて生まれたもので、英語のコーポレーションという語は、「体」を意味するラテン語コルプス(corpus)に由来している。では、具体的に企業とは何かというと、この由来にも示唆されているとおり、個人の集まりが、法律にもとづいて、一体化したもののことである。
それまで個人の集まりだったものが、企業になると、個々のメンバーの人格とは別個の人格として、行為することも、行為の対象にすることもできる。
英語以外の言語では、企業を表す語が古代ローマで企業を表すのに用いられていたもとの語ソキエタス(societas)にもっと近いこともある。例えば、イタリア語では、企業はソチェタ・ペル・アッツィオニ(società per azioni)、つまり「株式会社」と呼ばれる。ここに企業の第二の重要な特徴が示されている。すなわち株式と株主の存在だ。
企業が一般の投資家に向けて、株式を発行し、それらの投資家からお金を集められるということは、経営に携わる重役たちの所持金だけでなく、世の中にある広大な資本の海を利用できることを意味する。
さらにもうひとつ、事業を営むうえでたいへん好都合な特徴が企業にはある。それは有限責任という特徴だ。
パートナーシップの場合には、事業が失敗すると、パートナー全員が責任を負うが、企業の所有者は、企業の負債を返済する義務を負わない。株主は株の購入のためにお金を一度支払ったら、あとはもう、事業がどれだけ悪化しようとも、債権者から取り立てを受ける心配はない。
これらの特質を兼ね備えたことで、企業は商業活動を推し進めるとてつもなく強力なエンジンを獲得した。
資本家階級の誕生
実際、これらの特質を併せ持つというのは類例のないことで、18世紀英国の法学者ウィリアム・ブラックストーンは、有名な著書『英法釈義』(Commentaries on the Laws of England)の中でかなりのページをその説明に費やしている。
「企業の特権および免除、地所および財産は、ひとたび企業の所有するところとなれば、以降、新たな後継者にそのつどあらためて譲渡されることなく、いつまでも企業の既得のものであり続ける。なんとなれば、企業の創設から現在に至るまでに在籍した個々の構成員、および将来、在籍する個々の構成員は全員、法律上、一個の人格と見なされるからである。この人格に死というものはない。これはちょうどテムズ川がつねに同じ川でありながら、それを構成する部分は刻々と変化し続けているのと同じである」。
同じく英国の著名な法律家だったサー・エドワード・コークは、もっと簡潔に次のように述べている。企業は「目には見えず、死ぬこともない」。
企業の発展はまったく新しい社会階級の誕生にもつながった。資本家階級の誕生だ。いつの時代にも裕福な人たちはいたが、企業は裕福な人たちにもっと裕福になるための新しい手段を与えた。
富を持つ人はそれをただ蓄えておいたり、贅沢三昧の派手な暮らしに費やしたりする代わりに、企業に投資できるようになったのだ。企業の株主になれば、あとは投資したものが成長するのを高みから見守っていればいい。その成長のために実際に働くのはほかの人間であり、自分ではまったくか、あるいはほとんど何も貢献する必要がない。
これにより企業のあり方は一変した。企業の株式を持つがその経営には携わらない資本家階級が出現したことで、経済の中に、独自の論理と手法を有する新しい勢力が生まれたのだ。
資本家たちが気にかけたのは、たいていは給与や長期的な企業の成功よりも配当や株価のほうだった。このことは必ずしも企業にいい影響を及ぼさなかった。また、新手の詐欺を招くことにもなった。資本家は自分が株を持っている企業の評判を変えることで、株価を操作して、富を増やせたからだ。
例えば、東インド会社の有名な株主だったサー・ジョサイア・チャイルドは、インドで戦争が始まったというデマを流して、その株価を下落させた。そしてまんまと安値で株を大量に買い取ることに成功した。このような市場操作のせいで、株式市場や未熟な投資家の懐は数世紀にわたって損なわれ続けてきた。
「見えざる手」による監視
このような資本主義制度の台頭をどう評価するべきなのだろうか。アダム・スミスは、最終的には最善の結果をもたらすものだと考えていた。『国富論』の中で市場は「見えざる手」の監視下にあると論じられているのは有名だ。
利己的な個人がそれぞれ自分の利益ばかりを追求しても、「見えざる手」の調整機能が働いて、結果的には社会全体の利益が促進されることになるという。
「見えざる手」が具体的にどう働くかは明らかではないが、それはおおむね需要と供給の関係にもとづくものだった。つまり、企業どうしが市場の需要に従って競争すれば、おのずと社会に必要な財やサービスが手頃な値段で供給されるようになるという理屈だ。
この資本主義の「見えざる手」という考え方は、以来、世界じゅうの経済学者や、政治家や、経営者を魅了し続けてきた。大統領選挙の公約にも、国の政策にも、シンクタンクの白書にも取り入れられている。
「市場に問題の解決を委ねよ」、「市場を基盤とする取り組みが求められる」、「民営化すべきだ」等々、日常的に耳にする言葉にも、その残響が感じられる。
経済学者ミルトン・フリードマンが次のように結論づけたのも、「見えざる手」という考え方に導かれてのことだ。「企業の社会的な責任はひとつしかない。それはゲームのルール内で、利益の増大を目的とした活動に資源を振り向け、取り組むことである」。世界にこれほどまで大きな影響を及ぼしている経済理論はめずらしい。
一方で、「見えざる手」がほんとうにそんなによいものなのか、あるいはそもそも存在するのかについて、疑問を投げかける識者も少なくない。世界に災いを招くものとして、何百年にもわたって世の中から非難されてきた歴史が企業にはある。
(翻訳:黒輪篤嗣)
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