79年前の7月10日、9歳の時に仙台空襲に遭った人が当時の記憶をもとに1枚の絵を描きました。描いたのは焼夷弾から逃げている時に目にした、今でも脳裏に焼き付いている光景です。
青葉区の戦災復興記念館で開かれている戦災復興展に、1枚の絵が展示されています。
黒く塗りつぶされた大きな爆撃機が、照明弾で昼間のように照らされた仙台の街に無数の焼夷弾を落としています。
佐々木健二郎さん
「ここら辺、バーっと明るくなるんだよね。落とすところ。風で(焼夷弾が)流れていくんですよ」
描いたのは、青葉区に住む画家の佐々木健二郎さん(88)。9歳の時に仙台空襲に遭いました。79年前の7月10日未明、佐々木さんは現在の国分町近くにあった自宅で寝ていたところ、爆撃と空襲警報の音で目を覚ましました。
佐々木健二郎さん
「起こされてうちの庭に作った防空壕に入った。焼夷弾がバラバラその辺に落ちだしてとにかく逃げろって(父が防空壕から)引っ張り出した。とにかく評定河原の方に逃げろーって」
家族で庭の防空壕に一旦入ったものの、このままでは窒息してしまうと危険を感じた父親の判断で、防空壕を出て2人の姉に手を引かれながら広瀬川の河川敷に向かいました。
佐々木健二郎さん
「火のないところに飛び移るようにしながら、姉2人と必死になって暗がりに逃げた」
空から無数に降り注ぐ焼夷弾から必死に逃げ佐々木さんたち一家はかろうじて助かりました。佐々木さんが描いたのは、そうして逃げた中で見た光景。79年経った今でも、脳裏に焼き付いています。
佐々木健二郎さん
「ここに照明が当たってここに女の人。(照明弾で)昼間よりバーッと明るくなるんですよ」
照明弾で昼間のように明るく照らされた地上に無数に落ちてくる焼夷弾。その1つが女の子に当たり発火します。
佐々木健二郎さん
「耳によみがえってくるわけね、あの声。未だに。すごいですよ、これは。『お母さん!』っていう声ね。女の子倒れて目に浮かんでくるから本当に困るのね」
佐々木さんは、画家としてこれまでさまざまな絵を描いてきましたが、自身の空襲体験を描いたのは実は今回が初めてです。
佐々木健二郎さん
「こういうのあんまり描きたくないからね。思い出すし」
壮絶な経験をあえて描いてこなかった佐々木さんを後押ししたのが仙台・空襲研究会の新妻博子さんです。
仙台・空襲研究会 新妻博子代表
「仙台はあんまり空襲を体験した方が描いた絵はないので本当に貴重な絵でして」
新妻さんは仙台空襲を調査し記録に残す中で、画家である佐々木さんに記憶を絵として残すことを勧めました。新妻さんはアメリカ軍の資料を分析し、当時何があったかを調べることにも力を注いでいます。
仙台・空襲研究会 新妻博子代表
「パネルの左上、黒い囲みがありますけど、もとになった米軍資料なんです。攻撃した側のデータなので正確な攻撃時間とか何を落としたかっていうこともちゃんと書いある」
アメリカ政府が公開している当時の資料を取り寄せ、客観的なデータと証言などを照らし合わせながら攻撃の意図を読み解いていくのです。
仙台・空襲研究会 新妻博子代表
「一番なのは攻撃意図ですよね、なんのために落としたのか。やっぱり市民としては一番知りたいところでして、それをセットで後世に伝えたいという思いでずっと調査をしてきた」
仙台は甚大な被害がでた7月10日の前後、半年間にわたり攻撃を受けています。このうち7月3日にあった現在の太白区三神峯周辺への爆撃が別の地方での主な任務の傍らで行なわれたものだったことを新妻さんたちは突き止めました。活動の原動力をこう話します。
仙台・空襲研究会 新妻博子代表
「戦争は遠いなと思っている若い世代とか、そういう人たちが『戦争って自分と関係ないよ』じゃなくて、おじいちゃんのおじいちゃんとかつながっているんだということを実感してもらえる場にちょっとでもなれるといいなと思って、いつもやっているんですけども」
戦争は私たちが生きている「今」につながっている。あの日の体験を絵にした佐々木健二郎さんの鮮明な記憶もそのことを私たちに思い出させます。
佐々木健二郎さん
「今でも涙が出るんです。こんなね、女の子が『お母さーん!』って死ぬんですよ。今も夢に出てくる。二度とあってはならないということですよね。こういう状態に」
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