「自由連合」の代表を務めた徳田虎雄さん=1998年4月30日、加古信志撮影

 10日亡くなった徳田虎雄さんは医師や政治家として離島医療の充実に力を注ぎ、その強烈な個性で人を引きつけた。

 「奄美は琉球と薩摩、戦後は米軍に抑圧されてきた。その心を解放するために日本一の医療と福祉の島にするんだ」。徳田さんが衆院議員時代に地盤とした奄美大島について語っていた姿を、支持者だった叶隆典さん(83)=鹿児島県奄美市=は覚えている。

 徳田さんが政界進出を目指した1980年代、地元経済を支える大島紬(つむぎ)の生産に陰りが見え始めていた。公共工事による振興を訴える声もある中、徳田さんが志したのは地域医療の充実だった。叶さんは「徳田さんの訴えに夢を感じた。徳田さんがいなければ、現在のように安心して暮らせる島ではなかったのでは」と話す。

 ある時、叶さんらが島の経済などについて相談すると、徳田さんはけろっとして「知らん」と返した。そして「それはみんなの考えることだろう。それを持ってこい」と続けたという。

 叶さんは「当時はもう議員だったので、みんなから提案してほしいということだった。聞いた我々がばかだったなあと。票を無くするようなことも平気で言う人だった」と懐かしんだ。

徳田虎雄さん=徳洲会ホームページより

 徳田さんの選挙を支えたという奄美市の70代男性は、徳田さんがもたらした地域医療が奄美の生活を変えたとみる。「徳洲会病院ができるまで、離島ではけがも病気も(治療は)あきらめていた。抑圧されて弱い立場だった奄美の心の解放運動もしてくれ、人柄にほれ込んで投票した人も多かったはずだ」と語る。

 一方、徳田さんが立候補した旧鹿児島県奄美群島区は中選挙区制時代に全国唯一の1人区で、議席を巡って徳田さんと故保岡興治氏が激しく争い「保徳戦争」と呼ばれた。買収など選挙違反も続出し、関係者には長らく禍根も残った。

 当時、保岡氏の秘書として保徳戦争を経験した、元衆院議員の金子万寿夫さん(77)は「徳田さんはエネルギッシュで、手ごわい相手だった」と振り返る。ただ、徳田さんが当時取り組んだ医療の充実に感謝の思いも抱いている。金子さんは「徳田さんも含め、故郷に対する思いは、みんな変わらない」と語った。【中里顕】

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