ロレンソ文恵さんと夫のロレンソ・イエズスさん(左)と息子のロレンソ聖司さん(右)。下半身マヒでの帰国の実態とは?(提供写真)この記事の画像を見る(2枚)ツアーナース(旅行看護師)と呼ばれる看護師たちの存在をご存じでしょうか?「最期の旅行を楽しみたい」「病気の母を、近くに呼び寄せたい」など、さまざまな依頼を受け、旅行や移動に付き添うのがその仕事です。連載第6回は、スペインのオルメドという町に夫婦で住むロレンソ文恵さんのお話。日本へ帰国中に大動脈解離を起こし、3年間国内で療養。その後、スペインに帰るも再発し、下半身マヒに。しかし、とある事情から家族での日本への移住を余儀なくされます。そこで登場したのが、ツアーナースと呼ばれる看護師でした(本記事は「日本ツアーナースセンター」の協力を得て制作しています)。

ロレンソ聖司さん(35)は悩んでいた。下半身マヒの母親を、家族だけで日本に連れて帰ることができるのか。スペインの片田舎から東京まで20時間を超える行程である。

ツアーナースの助けがあったからこそ、移送の旅は可能になった。しかし、計画を立て始めた当初は、ツアーナースの存在さえ聖司さんは知らなかった。

日本へ帰国中に起きた大動脈解離、スペインでの再発

スペインのマドリードから北に約150キロ離れた人口3600人ほどのオルメド。農業や畜産が主な産業の小さくてきれいな町だ。聖司さんの母、ロレンソ文恵さん(73)は、その町で大動脈解離を再発した。2023年2月のことである。

埼玉県川越市の自宅で、ご家族の話を聞いた。聖司さんは次のように語る。

「スペインのオルメドで倒れる4年前、母は日本で1回目の大動脈解離を発症しています。救急車で運ばれ、緊急手術が行われました。幸い事なきを得て、予後も悪くなかったんです。3年ほどして、様態も安定したので、父の住むオルメドに戻ったのです」

オルメドは、文恵さんの夫、ロレンソ・イエズスさん(77)の故郷だ。日本の大学で長くスペイン語を教えていたイエズスさんは、定年後に夫婦で生まれ故郷に帰るのが夢だった。

イエズスさんの話。

「65歳で仕事を引退した12年前、妻と2人で故郷に帰りました。それでも子供たちに会うために、年に2度、春と秋には日本に来ていました」

1回目の大動脈解離の発作は、夫婦で日本に帰国した数日後に発症した。現在は下半身マヒで、車椅子が手放せない文恵さんは、不自由な体ながら、快くインタビューに応じてくれた。

「車で聖司を駅まで送った帰りでした。運転中に突然胸のあたりに押さえつけられるような痛みを感じました。路肩に車を停めて、窓の外を見ました」

自転車屋の店主が、文恵さんの顔を不思議そうに見ていた。ドアを開け、道路に足を下ろした。自転車屋の店主が駆け寄ってきて、声をかけた。

「どうしました」

「胸が、とても苦しくて」

「救急車を呼びましょうか」

「いえ、大丈夫です」

とは言ったものの、ただ事ではないと感じていた。他人から見ても救急車を呼びたくなるような顔をしているのだろう。痛みはどんどん増してくる。でも自分で救急車を呼ぶ勇気が出ない。文恵さんはスマホを取り出して、聖司さんに電話をかけた。

胸に激しい痛み、そして意識を失った

幸い、聖司さんの乗った電車はまだ2つ先の駅にいた。聞こえてくる母の、いつもとは違う声に不安が込み上げた。

「聖司がね、来てくれて、すぐに救急車を呼んでくれたんですよ」(文恵さん)

救急車は数分後に到着した。文恵さんは救急車に乗ると同時に意識を失った。判断が遅ければ、道端で倒れてしまったかもしれない。

大動脈解離とは、胸から腹部へかけて位置する大動脈の血管の壁が何らかの原因で剥がれ、中膜と外膜の間に(大動脈は内膜、中膜、外膜の3層から成っている)血液が流れ込む状態を指す。前兆となる症状はなく、極めて防ぎにくい疾病だ。文恵さんも直前まで、普通に車を運転していた。処置が遅れたことで命と落とすケースも多々ある。

「4月なのに雪が降っている寒い日でした。そんな気候も体にさわったのかもしれません」(文恵さん)

文恵さんが目を覚ましたのは、手術後の病室だった。

「私、北海道生まれなんです。目が覚めたら、北海道からも親戚たちが集まってくれていました」

もしかしたら、最悪の結果になるかもしれない──。そんな不安があったのだろう、北海道から集まった親戚たちは、目を覚ました文恵さんの顔を見て安堵のため息をついた。

日本に比べて負担の大きいスペインの医療事情

手術からしばらくして、文恵さんの体調も安定してきたので、まずはイエズスさんがオルメドに戻った。文恵さんはその後も日本で子供と暮らしながら療養し、3年が経ったところで夫の待つオルメドに戻すことを決意した。

聖司さんの話。

「母の体調はその後ずっと安定していたのですが、2023年の2月にオルメドで大動脈の再乖離が起きました」

朝、目が覚めてトイレに行った後に、突然床が抜けたように、ガクンと視界が下がった。足に力が入らず、その場に崩れ落ちるように膝をついたのだった。文恵さんは慌てて夫の名を呼んだ。妻のただ事でない様子に、イエズスさんはすぐに救急車を呼んだ。

文恵さんが使用しているスカラモービル(ドイツ製)。車椅子に合体させて階段の昇降を可能にする(提供写真)

「オルメドは本当に小さな町です。救急車で隣町の大きな病院に運ばれて、診察を受けました」(文恵さん)

病状について、次のように説明されたという。

「簡単に言うと、大動脈の再乖離です。過去に大きな手術もしているようなので、これ以上手術することができない。下半身マヒも起きていて動けるようになるかはわからない、と」

聖司さんはそう語るが、どことなく歯切れが悪い。理由はスペインの医療体制にあるようだ。

「スペインの病院は日本と同じように、大きく分けて公立と私立とがあります。母が救急車で運ばれたのは公立病院でした。私立病院の医療費は全額自己負担なのですが、公立病院は無料で治療を受けることができます。無料なのは高齢の両親にはとてもありがたいのですが、日本のように医師からの詳細な説明はなかったようで、母の体に何が起こっているのか、なぜ下半身マヒとなってしまったのかは、実はよくわからないんです。お金の面を考えると私立病院に転院させることもできませんでした」(聖司さん)

手術ができず、下半身はマヒ。そんな状態で、投薬治療とリハビリの生活。3️カ月ほどで退院したが、そこからも通院とリハビリは続いた。

「退院して自宅に戻ったのですが、介護のことでまた問題が発生しました。スペインにも介護制度はあるのですが、日本のように要介護認定されれば誰もが利用できるというわけではありません。ある程度財産が残っている家庭では、全額自己負担なんです。父は日本の大学に勤めていたので、多くはないのですが、それなりの蓄えがありました。

でも、自宅で介護サービスを受けると、月額日本円で数十万円かかる。それではとてもじゃないけどやっていけないので、父には悪いのですが、両親2人とも、日本で暮らしてもらうことにしたんです」(聖司さん)

イエズスさんと文恵さんの出会い

約40年前、イエズスさんと文恵さんは出会った。その頃、イエズスさんはいわゆる宣教師として日本に滞在していた。一方、文恵さんはキリスト教の文化や、教えについて知りたいと、その方面の勉強を始めたばかりだった。文恵さんは勉強の一環として、毎週のように近所の教会のミサに参加していた。

「ある日ね、クリスチャンのお友達に誘われて、そのお友達がやっている絵画展に出かけたんです。小さな絵画展だったから、来場者もそんなに多くはありませんでした。私は絵を一通り見て、受付に戻ったんです。そしたらちょうどパパ(イエズスさん)が、受付名簿に名前を書いていた。ロレンソ・イエズス。その名前を見た時に、なんだか、ピンときたんですよね。やっぱり導かれていたんでしょうかね(笑)」(文恵さん)

イエズスさんの方にも同じ思いがあったようだ。そこから2人は時々会うようになり、やがて結婚することになった。ただ、家庭を持つためには、それなりの収入が必要だった。イエズスさんは、スペイン語教師の職を得て、関東近県の大学で教えるようになる。

「結婚当時は日本に来て10年目くらい、30代の後半でした。そこから就職活動をして仕事を見つけて、その仕事先の同僚に今住んでいるこのマンションを紹介してもらうなど、いろいろな導きがありましたが、それまでの生活は楽ではありませんでした」

前述の通り、定年後は生まれ故郷のオルメドに夫婦で住むのがイエズスさんの夢だった。その願いは叶ったのだが、別の試練が待ち受けていたわけだ。オルメドで文恵さんが倒れ、日本に戻ることになった。スペインから日本まで、20時間以上の行程。後半では、ツアーナースの力を借りながら行った旅の計画から実施までを見ていく。(後編に続きます)

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