奈良時代は「長屋王の祟り」と恐れられた天然痘
「またもや、あの悲劇が繰り返されるのではないか……」
正暦4(993)年頃、九州から流行し始めた疫病が、翌年には全国的に拡大。藤原道長は、伝え聞いていたであろう、200年前の凶事を想起したのではないだろうか。奈良時代の天平9(737)年に起きた、天然痘の流行のことだ。
「天平の疫病大流行」と呼ばれた、このときのパンデミックは「ある人物の祟り」と言われた。当時の政治情勢を振り返ってみよう。
時代としては聖武天皇の治世だったが、実権を握ったのは、皇族の長屋王である。先代の元正天皇の代に、藤原不比等から長屋王へと実権が移行。聖武天皇に代替わりしたあとも、長屋王が政権首班として、権勢を振るうことになった。
そんな政治の状況に不満を持ったのが、藤原不比等の子どもたちである。本来は父から譲り受けるはずの実権を奪ったのが長屋王であり、どうにかして取り返さなければならないと考えたらしい。
長男の武智麻呂(むちまろ)、次男の房前(ふささき)、三男の宇合(うまかい)、四男の麻呂(まろ)ら「藤原四兄弟」は、長屋王を追い落とすため、陰謀を実行する。
四兄弟は「長屋王に謀反の疑いがあり」と聖武天皇に密告。それを信じた聖武天皇によって、長屋王の邸宅は兵に包囲される。誤解を解くことはかなわず、長屋王は妻子ともども自害に追い込まれることとなった。
天然痘が流行したのは、まさに藤原四兄弟が実権を奪ったときのことだった。天然痘によって、藤原四兄弟の全員が死亡することになる。
感染症にもかかわらず、隔離しなかったことが原因だと思われる。だが、当時は理由がわからないため、「長屋王の祟り」と恐れられることになったのである。
新しい太政官の筆頭として、元皇族の橘諸兄が就任。以降、藤原氏は停滞することとなった。
疫病が追い風となって出世した道長
天然痘によって死亡した「藤原四兄弟」だが、その後、この4人を先祖として、それぞれの家が発展する。
武智麻呂の子孫が南家、房前の子孫が北家、宇合の子孫が式家、麻呂の子孫が京家として続いていく。このうちの北家に生まれたのが、道長である。
父の兼家のもと、5男として生まれた道長は当初、出世する見込みが希薄だった。妻の倫子との結婚話も、最初は父で左大臣の源雅信から拒否されたほどである。父の兼家の死後、案の定、長男の道隆が後を継ぐことになった。
ところが、天然痘と思われる疫病が全国的に拡大。猛威をふるうなか、道隆が亡くなり、さらにそのあとをついだ弟の道兼も死亡する。兼家と正妻格との間に生まれたのは、道隆・道兼・道長だったが、そのうちの2人の兄が死亡したため、道長のもとに政権が転がってくることとなった。
かつて藤原氏を衰退させた疫病が、道長に限っては、プラスに働いたともいえるだろう。つくづく強運の持ち主である。
もっとも43歳の若さで亡くなった道隆は、疫病ではなく、糖尿病の悪化が死因だったようだ。
『栄花物語』では、「水を飲みきこしめし、いみじう細らせ給い」と記されている。
そして、糖尿病が発症したのは、道隆の過度な飲酒習慣と無関係ではなかっただろう。道隆の酒好きについては『大鏡』で、こんな逸話がつづられている。
藤原道隆は酔い潰れることに慣れていた
賀茂社を参拝したときのことだ。下鴨神社の前では、三度の御神酒(おみき)を差し上げるのが、習わしとなっていた。道隆のお酒好きはよく知られていたので、神主が特大の盃を用意したところ、道隆は3杯どころか、7杯も8杯も飲んでしまったという。
その結果、どうなったか。『大鏡』では、次のようにつづられている。
「上賀茂神社に参上する車の中で、仰向けになって車の後ろのほうを枕にして寝てしまった」
(上の社に参らせ給ふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚におほとのごもりぬ)
儀式の酒を大量に飲んで寝てしまうとは、ただの酔っ払いおじさんである。
京都・上賀茂神社(写真: kazukiatuko / PIXTA)上賀茂神社に着くと、従者たちが車の轅(ながえ)を下ろして降りる準備をするも、一向に目覚める気配がない。
そのままにしておくわけにもいかないので、道長が自分の車から降りて、大きな声で呼びかけて、扇を打ち鳴らすが、道隆はまったく目覚める様子がない。仕方がないと、道長は道隆の袴の裾を荒々しく引っ張ると、ようやく起きたのだという。
酔い潰れているところを、弟によって強引に起こされた兄。何とも気まずい瞬間だが、道隆がとった行動は意外なものだった(『大鏡』)。
「持っていた櫛やかんざしを取り出して、 髪の乱れを整えてから、車を降りられた。 その姿には酔いつぶれていた気配などまったくなく清らかな様子だった」
(御櫛、笄具し給へりける、取り出でて繕ひなどして、おりさせ給ひけるに、いささかさりげなく、清らにておはしましし)
酔いつぶれてもすぐに復活する男、道隆。『大鏡』は「道隆公のお酒好きは品のよいものでした」(この殿の上戸はよくおはしましける)としているが、こんな飲み方をしていれば、体を壊すのも無理はないだろう。
そんな道隆が病床に伏して、いよいよ亡くなろうとしているときのこと。周囲の人々が道隆の体を浄土のある西のほうへと向かわせては「念仏をお唱えなさいませ」と勧めたときに、道隆はこう言ったという。
「済時、朝光なども極楽に行くだろうか」
藤原済時や藤原朝光は、道隆の飲み仲間だ。3人で車中にいるときに、飲みまくって酩酊すると、簾を上げて冠を脱いで、髻を人前にさらすなど、バカ騒ぎをしたこともあったらしい。
飲み仲間を思いながら43歳で他界した
いよいよ人生の最期というときに思い出すのだから、道隆にとっては、気心知れたメンバーでの飲みの場が、それだけ楽しかったのだろう。酒量が多かったのは、父から摂政・関白を引き継いだ重圧もあったのかもしれない。
長徳元(995)年4月10日、道隆は43年の生涯に幕を閉じる。道隆が政権を握っていたのは、約5年間と短かったが、後を継いだ道兼にいたっては、わずか数日で病死している。
人の命はいつ途絶えるかわからないものだ――。道長はそう実感しながら、道隆の息子・伊周と、熾烈な後継者争いを繰り広げることになる。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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