消極的な考えで自治会に入ってみると…
ピンチをチャンスに変える――よく聞くフレーズだが、状況が厳しければ厳しいほど、新時代を切りひらくチャンスは広がる、そんな「確信」は私の身近な生活の中に転がっていた。
いまからちょうど10年前の4月、わが家は神奈川県の小田原市に引っ越してきた。しばらくは賃貸だったが、思いきって家を建てて入居した次の日だった。突然、玄関のチャイムが鳴った。
「この地区のものです。私たちの自治会に入ってくださいませんか?」
入会のお誘いだった。正直に言うと、何かと面倒そうで、気が進まなかった。だが、たいした会費ではないし、終の住処になるかもしれない。ことを荒だてるのはやめておこう、そんな消極的な考えで入会することにした。
しばらくして、長男が「子ども会」の存在を小学校で聞きつけてきた。親としては、負担でしかない。だが、子どもらは、東京で無縁だった子ども会なるものに興味津々の様子だった。
付き合いで顔を出してみると、会は壊滅の危機に瀕していた。うちの長男、長女を含めても、あと1、2年で会員は5人前後に減りますよ、解散しないといけないかも、という話も聞こえてきた。当時、そんな子ども会が、私たちの暮らしを変えることになろうとは、知る由もなかった。
始まりは、近所で造園業を営む園田健さんとの出会いだった。私たちは荒れ放題の庭の管理に困っていた。知り合いなら安くしてもらえそう、そんな軽いノリで彼に手入れを頼むことにした。
職人を絵に描いたようなソノケンさんは、10時、12時、15時にキッチリと休憩をとる。最初はお茶を飲みながら話す程度だったが、だんだん距離が近づいてきた。一緒にお酒を飲んだりもするようになった。ある手入れの日のこと。ソノケンさんは私にこう切り出した。
「今度、青年部の部会やるんで、井手さんも来てみませんか?」
彼は青年部の部長だった。断ると悪いし、義理もある。まあ、一度くらいは顔を出してみるか、またもや軽い気持ちで部会に参加してみることにした。
「この地区は小田原のバチカンなんですよ」
会合はものの20〜30分で終わったが、みんなのお楽しみは、その後の飲み会のようだった。健康診断の数値が悪く、禁酒していたタイミングだったが、酒は嫌いじゃない。「井手さんの歓迎会だから」の一言を待つまでもなく、私は集まりに加わることにした。
向かいに座ったのは神永勉さんだった。彼は、小田原愛、地域愛のかたまりのような人で、初対面でしらふの私に、2時間以上も地区の歴史、素晴らしさを語り続けた。だいぶ聞き疲れていたが、そんな私にとどめを刺すかのように彼はこう言った。
「要するにこの地区は何でもあり。<小田原のバチカン>なんですよ!」
勉さんは、自分の地区を、市のなかにある独立国家になぞらえたのだった。彼の話はほとんど忘れたが、この一言だけは心に刺さった。何でもありなのね……そう心でつぶやきながら。
ある日のこと。ソノケンさんから、人手が足りなくて婦人部は解散してしまった、という話を聞かされた私は、いかにも学者っぽい口調でこう言った。
「いまどき、男女を分ける必要なんてないですよ。男も女もみんな青年なんだから、一緒にやればいいんですよ」
とはいえ、自治会は、高齢者の意向が大きい。保守的な人も多いから、男性と女性を同じ部会に、なんていう提案は、反対されるはずだ。ところが、「うちの自治会長の峯(一喜)さんならきっと応援してくれますよ」と言って、ソノケンさんは、あっさりと青年部を男女の集まる場に変えてしまった。
これには驚いたが、青年部はひと回り大きな組織になった。じつは、青年部のメンバーは子ども会活動と重複している。担い手が増え、青年部の風通しがよくなると、とたんに子ども会活動も活気づいてきた。
北条五代祭、お囃子会、そうめん流し、海での網引き、肝試し、夏祭り、焼き芋、6年生を送る会……イベントは盛りだくさん。どうせやるんなら、大勢の子どもたちに参加してほしい、いっそのこと、よその地区の子どもたちにも声をかけてはどうか、そんな景気のいい話も出始めた。
子ども会のイベントの1つ、焼き芋大会(写真提供:神永裕子)ただ、子ども会は会費制だから、会費を納めていない他地区の子どもたちが参加すれば「ただ乗り」との声も出かねない。悩みどころだった。
みんなの心がひとつになると一気に活気づいた
イベントの舞台は、小田原藩主・大久保公の菩提寺、大久寺だ。副住職で青年部メンバーの小林和行さんは、お寺はみんなの空間ですよ、とさりげなく言った。この一言は効いた。お金は出せる人が出そう、どの地区の子どもも格安で参加できるようにしよう、という話でまとまった。
みんなの心はひとつになった。それからはあっという間だった。いまでは、お寺には、区域を超えて100人以上の人たちが集まっている。にぎわいは、子どものいる家庭に自然と伝わる。子ども会への入会者も増え、15人前後の子どもたちが会員に名を連ねてくれるようになった。
小学校を卒業すると子ども会は終わる。私立の中学に行けば学校もバラバラ。だから、私たちは希望者がそのまま青年部に入れるようにした。もちろんお酒抜きだが、部会後の飲み会も参加できる。青年部の数はさらに増え、子どもたちの「もらう楽しみ」は「支える喜び」に変わった。
お祭りでは青年部に入った中学生も神輿を担ぐ(写真提供:酒井沙織)地区の全体行事に防災訓練がある。避難先での炊き出しも大切な訓練の1つで、今年はレトルトのカレーを用意した。訓練の最中、たまたま顔見知りのお年寄りが通りかかった。
「せっかくだからカレー、食べていったら?」
「いや、私は違う地区だから」
「いいよ、気にしないで、食べていきなよ」
何気ないやりとり。だが、この会話のなかに、新しい歴史の鼓動を感じた。
国民が生き延びる道を模索したスウェーデン
貧しい農業小国だったスウェーデンでは、20世紀初頭にP.A.ハンソンが登場し、すべての経済的、社会的バリアを破壊しよう、お互いが家族のように支え合う国を作ろう、と国民に訴えた。「国民の家」という歴史的な演説である。
当時のスウェーデンでは、若者がアメリカに移住し、出生率が下がり、多数の国民が貧しさにあえいでいた。誰もが等しく苦しんでいた時代だった。
だからこそ、彼らは、垣根を越えて、自由と平等をすべての人たちに保障し、一人ひとりが連帯することで、すべての国民が生き延びる道を模索した。のちに言う「社会民主主義」の始まりだ。
いまの日本はどうか。経済の成長は極めて緩やかになった。出生率の低下も深刻、人口は減り続けている。暮らしを国や自治体に頼ろうとしても限界があることに誰もが気づいている。
私たちの地区も同じだ。自治会の高齢化、子ども会の危機、婦人部の解散、神輿の担ぎ手不足、問題を数えあげればキリがない。
でも、危機だからこそ、男女のバリアを破壊し、地区の垣根を越えて、自分たちに<必要>なことを自分たちの力で満たし合っていこう、という空気が広まった。
危機だから社会は変えられる
自然災害は危機の典型だ。みんなが苦しいからこそ、地区の垣根を越えて、みなで痛みを分かち合わなければならない。危機だから社会は変わる。変えられる。
この連載の記事はこちらから私は、この大切な気づきを、仲間たちから学んだのだった。
ソノケンさんは、「英策さん、俺たちがジジイ、ババアになったら、庭で昼間っからビール飲んで青年部の思い出を話そうよ」と言う。勉さんは「東京駅ではなく、小田原駅に向かう電車を「上り」に変えるんです」と熱く語る。
私たちは、答えのない時代を生きている。でも、正解がないからこそ、大小さまざまな夢を見て、無数のチャレンジができる。夢と愉しさに満ちた縮減の時代。愉しさと苦しさ、成功失敗の積み重ねの先に、<この国の新しいかたち>はある。
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