シリーズ「語り継ぐ戦争の記憶」です。8月6日は「広島原爆の日」です。79年前、広島に原子爆弾が落とされ、その年のうちに約14万人が亡くなったと推計されています。宮城県内にも広島で被爆した人が暮らしています。8歳で被爆し、宮城で語り部を続ける人の思いを聞きました。

木村緋紗子さん
「8月6日の8時15分、原爆が落ちまして、その時から私の人生が変わってしまいました」

79年前の8月6日を境に人生が変わったと話すのは、仙台に住む木村緋紗子さん。県内在住の被爆者で作る宮城県原爆被害者の会で会長を務め、語り部として自らの被爆体験を伝え続けています。木村さんは8歳の時に爆心地から1.6キロの祖父の家で被爆しました。

「私がいたのは家の中です。家の中にいましたけれど崩壊しました。それくらい爆風がすごかったんです」

木村さんは倒壊した家屋の下敷きになりましたが、助け出されました。しかし、内科医で、より爆心地に近い場所で往診中だった父と、屋外にいた祖父が犠牲となりました。木村さんは現在87歳。がんや骨粗しょう症など7度の手術を経験し、足には障がいがあります。それでも活動を続ける木村さんには二度と繰り返してはならないという思いだけでなく、強い自責の念があるといいます。
この絵は、木村さんの体験を聞いた広島の高校生が描いたもの。全身にやけどを負い、被爆から1週間苦しんで亡くなった木村さんの祖父と、その看病をする木村さんといとこの姿です。

「熱線にあたってそして膿んでしまって、そして膿が出てくる。そこにハエがたかってうじがわく。そのうじ虫を一生懸命取っているんです」

懸命に祖父を看病した木村さんですが、その時、図らずも頭によぎったある思いを、今も悔やみ自分を責めています。

「私が何を思ったかっていうのは、もう早く祖父死んでくれって私思ったんです。私がそういうことを考えたということを、申し訳ない、またあの時に亡くなった方たちに申し訳ないという気持ちで私は今87歳ですけれども、一生懸命頑張っているわけです」

生死の境をさまよう祖父に対して抱いてしまった負の感情を忘れることなく、戦争の残酷さ、愚かさを伝えるのは自分に課せられた使命だと思っていると話します。

「あの時に我々国民は、市民は何もしていないわけですよ、悪いことなんて。それにも関わらずこういうふうな目に合わなくてはならないというのが非常に悔しい」

そして、79年が経ち、戦争を経験していない世代がほとんどになっていく中で、若い世代に伝えることを大切にしています。

「やっぱり若い人に話を聞いてもらいたいです。若い人たちが私のことを連れて行って、そこでいろいろな話をしたいなって。そういう輪を作りたいなって思っているんですけれど。そして若い人たちとお話して、若い人たちに今後どうしたらいいかって考えてほしい」

先日の集まりでは、その若い世代が木村さんの話に耳を傾けていました。

講演を聞いた女性
「学生の時に授業でも短く、そこまで深堀りされて来なかったので、やっぱりこういう残忍な行為とかがあったことを一人でも多くの人たちに知ってもらえるような活動を自分たちでしていきたいなと思います」
「きょう実際に聞いた話をまずは身近な家族だったり友人だったり、そういう所につなげて、核兵器はダメということを身近なところから広げていけたらなと思いました」

広島の記憶が、宮城で、そして世代を超えて語り継がれていきます。

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