最初のうちは「料理のスタイリスト」と名乗っていました。洋服じゃなくて、料理のスタイリング。フードスタイリストという肩書は、カタカナ職業を紹介する新聞のコラムで付けられたものです。
例えばテレビCMの場合、早朝にスタジオ入りしますが、私の本番は出演タレントが撮影を終えて帰ってから。見て食欲が湧くような食べもののみずみずしさを「シズル感がある」といいますが、そのシズル感を捉えるほんの一瞬のシャッターチャンスに賭け、明け方まで試行錯誤を延々と続けます。
食に関わる最初の仕事は1978年に始めたNHK「きょうの料理」でした。テキストの写真の撮影アシスタント。当時31歳、子育て中でフルタイムの仕事ができなかったためです。その中で料理が映えるような器をお店から借りてきてリアルな生活感を出し、それまでの紋切り型の料理写真を変えていきました。そうしたかったからしただけですが、結果的にそれが表現の変革につながりました。
あらゆる映像コンテンツにとって「食」の重要性は増す一方だ。かつて料理はいくらでも代替がきく「消え物」と呼ばれ、それを扱う専門家も撮影現場では一段低く扱われていました。それが80年代半ばからバブル期へと盛り上がるグルメブームを経て、今や食べものを取り扱わないメディア、番組はないといってもいい状況です。飲食にまつわる広告も本当に増えました。
フードスタイリストはその全てに関わります。長年、いくつもの現場を掛け持ちする毎日を過ごしてきました。そうなると食の業界の全体を見渡して仕事をすることができます。時代、時代の視聴者の好みや気分に響く、みなが自分の事と思えるような生活感ある表現とは――。それを常に追い求めてきました。
その原点が伊丹十三監督(故人)との仕事です。映画の撮影現場は私好みの仕事とは違っていましたが、監督はこちらが選ぶ皿や器をいつも気に入ってくれて、最初に関わった「タンポポ」以降も、シナリオになにがしか食の場面を用意して呼んでくれました。伊丹作品で主演した宮本信子さんは「料理のスタイリストをつくったのは伊丹さんだ」と言っていますね。
師匠はいない。自身の内なる直感に導かれるように新しい仕事をつくり出してきた。この仕事を始める前は、東京・南青山で編集プロダクションのはしりのような仕事をしていました。といってもまだ20歳そこそこの不良娘で、ほとんど遊びの延長です。デザイナーの助手だった私とカメラマンの助手、コピーライターの卵がチームを組んで。自分たちの感覚のままに街の流行を取材し、若者の視点で発信していただけです。でもそれを周囲の大人がおもしろがって取り上げてくれた。
食の仕事は誰かに付いて教わったわけではありません。まったくの独学です。心地よいもの、そうした方がキレイだと思うことを好きにやってきた延長線上に今の自分があります。
チームを組んでいた当時の仲間がシナリオ学校で校長を務めていて、今年からそこで脚本づくりを学びはじめました。フードスタイリングとはまた別の立場で映画や映像の世界と関わる日が来るなんて、人生は不思議です。
戦後間もない1948年、東京・日本橋で生まれる。物心がついてからは東京の先端カルチャーの中心地、青山で育つ。ちょっと複雑な家庭で育ったいわゆる不良少女で、中学・高校(実践女子学園)では「出る杭打たれまくり」でした。言葉は江戸っ子で、歯にきぬ着せずシャキシャキしゃべる。動きも活発。着飾った物言いが嫌いなので、先生も疎ましかっただろうと思います。高校の修学旅行は停学中で行けませんでした。何をやって停学になったのかはもう忘れましたけど。
19歳の頃から、デザイナーで14歳年上の異父兄、林忠を手伝うようになりました。レイアウトの仕事です。美大に行ってもよかったのですが、当時は学生運動が激しく、兄は「おまえは絶対ヘルメットをかぶって棒を振り回すから」と。アシスタントにして自分の目の届くところに置いておこうと思ったのでしょう。
でも、兄がやっていた仕事は全国銀行協会などの業界団体や、「池坊全集」の装丁のようなおカタい仕事が中心だったので、「林さんのところのあのミニスカートの子って」と私は目立つ存在だったようです。結局、ここにいてもダメだなと思い、「ちょっとフランス行ってくる」と飛び出してしまいました。20代前半でした。
1年間、欧州の文化を吸収した。飛行機は運賃が高いから船でナホトカに渡り、シベリア鉄道でスウェーデンに向かいました。途中立ち寄ったモスクワでは、赤の広場でアイスを食べて、肖像画に「へったな絵」などと毒づきながら。
スウェーデンでは他の日本人の子たちと郊外の家に泊まり、農場で10日間ほど働きながら過ごしました。でも、すぐ飽きちゃうんですよね。寒くもなってきたのでパリに向かうことにしました。
8月末のパリはまだ夏休みで人もまばら。語学学校に入って場末の安宿に泊まり、1カ月くらいぶらぶらしていたら、彫刻家の水井康雄さん、その妻の美代子さんと知り合いました。
美代子さんは日本のファッション誌のパリ駐在員をしていて、私はそのアシスタント兼お手伝いとして、東京に送るファッションニュースの制作に携わるようになりました。
パリ18区の高級住宅街に住み込みで、マダムがシャンゼリゼ通りなどで女性に「すてきなお洋服ね」なんて話しかけるのを35ミリのカメラで撮影。「いま、スカートはミモレ丈がおしゃれ」などと見出しを付けて。
パリコレも取材しました。フランス語は話せないし、英語もひどいものだけれど、何も怖くなかった。でも、モードの世界にはそれほど興味を持てませんでした。「なんでこんなにもファッショナブルじゃないんだろう」って。パリを足場に他国にも旅行していたので、「ヨーロッパはもう分かっちゃった」と1年で帰国しました。
日本に戻ってほどなく、「パリ帰りのおもしろい子がいる」と噂が広がった。お金がないからパリでは何も買っていない。「洋服じゃないファッショナブルなものは何だろう」と考え、パリでの取材時にもらったディオールやエルメスの紙袋をコラージュ作品にして、雑誌の編集部に売り込んだんです。
そうしたら「メンズクラブ」や「エムシーシスター」の副編集長たちが「おもしろいね!」と。いづみちゃん、いづみちゃん、ってはやしてくれました。
そのうちに東京の最新の流行を取材し、雑誌の編集ページに企画として持ち込むようになりました。
兄のアシスタント時代に知り合ったカメラマンのアシスタントやコピーライターの卵と組んでね。「アンアン」「ノンノ」「私の部屋」……。雑誌の後ろの方のモノクロページで、ページ5000円で4ページ。後に言う編集プロダクションのような感じです。
東京・青山を足場に、最新の流行を発信する雑誌記事で頭角を現した。仕事という意識などなくて、遊びの延長。気になることを追いかけていただけですが、1970年代の青山かいわいはそれだけ刺激があふれていました。若い人の目を通して見つけたいいものを、自分たちの言葉で書く。私の人生は青山から始まったような気がします。
その後、スカウトされて出版社の編集部員になりました。昼も夜もなく仕事に熱中しつつ、仕事仲間でカメラマンだった今の夫と結婚。編集・撮影などを手掛ける「石森スタジオ」を立ち上げて数年たった頃、妊娠したことが分かりました。
78年に娘を出産した後は生活が一変しました。編集者やデザイナーに復帰したくても、片手間の仕事しかできず戻れない。そこでNHK「きょうの料理」の仕事を始めました。テキストに載せる料理写真の撮影補助。裏方です。
当時の料理写真の器は料理研究家の先生が持ち込むものでした。だからNHKのテキストと別の出版社の雑誌で同じ器が写っているのも当たり前。それに気付き、「やめよう、借りてくるわ」。それはあの時代、誰もやっていなかったことでした。
食器をきっかけに料理の仕事との接点が生まれた。しかし、自身は食に関心があったわけではない。料理なんか大嫌いというか、あまり食べず、好き嫌いも多かった。青魚もダメ、煮物に入っている肉も残す。兄たちとウナギを食べに行っても「ええ、うな丼? 私はうな重がいい」って1人だけお重を取ってもらって。どんぶりが食事の後、汚れた状態で目の前にあるのが嫌だったことも理由の一つです。
NHKでは料理を盛る器を探して日本中の食器屋さんを見て回りましたが、どの店も1回見れば並べられた品物を全部覚えてしまいます。
そこで、電話をかけて「3番目の棚の右から4つ目の皿、着払いで送ってください」。それが才能だなんて思わないけれど、子どもの頃、美術はいつもクラスで1番だったから、ものを見極めて記憶する力はあったのかもしれません。キレイなものが好きだから。でもそれが汚れるのは嫌いだった。
テキストが発売されると、読者から局に「あのページの器はどこで買える?」と問い合わせが入ります。その件数がすごいから「石森さん手伝ってよ」と言われ、電話口で「NHKでございます」。売っている店は全て即答できました。べつに通信販売をやっているわけじゃないのにね。
そんなとき、映画監督の伊丹十三さんに呼び出された。呼ばれたのは伊丹さんの自宅でしたが、すごく変な部屋でした。畳敷きで、真ん中に布団が一組敷かれていて、周りには本や雑誌が山積み。作品の構想を練る部屋だったのでしょうが「せんべい布団じゃん」と思ったことを覚えています。
布団に座った監督は、手近な本の山から1冊を手に取って「これ、どこで買えますか」と。ラーメンに関するムック本で、指さしたのはあるどんぶりでした。「これは買えません。日本に1つしかないから」と答えました。
粉彩という技法で絵付した景徳鎮の器でしたが、認可されていない素材が使われているので輸入できない。それを聞いた伊丹さんは「おおっ!」と。映画にリアルさを出すのに私の目が役に立つと思ったのでしょう。それで「タンポポ」の撮影に参加することになりました。
でも映画の現場は好きになれませんでした。キレイな食器を用意しておいしそうな料理を完璧に盛り付けても、助監督の「はい、じゃあ汚して」のひと声で一斉に食べ散らかされる。作り物の映画に本物らしさを出すためなのですが、うわあ、これが映画か、と思いました。「汚す」ということが映画なんだ、と。初めて覚えた映画用語は「汚し」でした。
ラーメンを題材にした伊丹十三監督の映画「タンポポ」(1985年公開)に食器の専門家として関与。それを機に何本もの伊丹作品に参加した。「タンポポ」はいい映画とは思っていませんでした。どこもキレイじゃないから。だから撮影の打ち上げで、映画の仕事は二度とやらない、と宣言しました。「あたしキレイなものが好きだし」って。でも監督はその後の作品でも、シナリオのどこかしらに食の場面を入れて現場に呼んでくれました。
それまでの自分はキレイなものが汚れることを嫌っていました。バランスのとれた美しさが好きだった。それが映画の世界で遊ばせてもらって、「汚す」ことの意味を知ったわけです。伊丹組の現場が「汚し」にこだわったのは、日常の生活感を追求するためなのだと。
生活感を出すために、キレイなものをわざと汚す。これは私にしかできないことだったな、と後々思いました。生活感とはリアリティーがあるということ。つまり「生きている」ということです。
「タンポポ」の劇場公開から年月がたったある年の正月、新潟の苗場スキー場にいたら、たまたまホテルのテレビでこの映画が放映されました。
夜11時に放送が終わると、館内放送で「ただいまラーメンコーナーを開けました。皆様お越しください」。みんなラーメンが食べたくなってフロントに尋ねたのでしょうね。それを聞いて、ああ、やっぱりいい映画だったんだなと思いました。
テレビCM、商品広告、雑誌など、瞬く間に活躍の「現場」は広がった。伊丹さんとの仕事がきっかけで、テレビのCMの仕事が来るようになりました。最初は調味料メーカーのお中元セットのCM。広告会社もよく使う気になりましたよね。料理家じゃないし、どこの馬の骨とも分からない私を。
CMはタレントが演じる若いカップルがその商品を使って魅力的な食卓をつくるという設定。その料理を私がイチから用意しました。見る人がみな「すてき!」と思うようなテーブルを、実際の生活の中でどう食べられるのか、と想像してコーディネートする。生活を感じさせない料理写真はつまらないから。
かつて料理写真とは背景用の紙に載せ、45度の角度で俯瞰(ふかん)して撮るものでした。そこに生活感など感じようもない。あるロケでその紙を忘れてきたカメラマンがいて「あとで切り抜いたりなんなりできるからいいよ。料理は添え物だから」なんて言われた。悔しい思いをずっと覚えていて、後々会うたび「添えもんの石森だよ」と当てこすりを言ったものです。
世の中は空前のグルメブームに。あらゆるメディアに「食」が登場するようになった。「シズル感」という言葉があります。食べものをみずみずしく見えるように撮ることを表す用語ですが、特にテレビがそれを追求するようになりました。たとえば、ソースなら垂れて、こぼれて落っこちる寸前まで、朝まで何度も繰り返す。かつての「添え物」とは大違い。
時代の流れはすごく早くて、すごく強かった。あっちがこれやるならこっちはこうやる、みたいな。例えば「アンティークのテーブルに皿を載せたらどうなる?」「北欧の大きな柄のクロスに白い皿を置いたら?」といった具合に、料理写真があっという間に変わっていきました。
でも、バブルに差し掛かるとだんだん極端になっていった。カレーのCMのディレクターが「石森さん、今度カレーで会席やりましょう」などと言ってくる。お金にあかせて突飛(とっぴ)を狙っちゃうんですね。
でも、一緒に踊ることはありませんでした。粋筋の人だった母の影響で、お金お金と言わなかった。おかげでうちの会社はバブルで大損することもありませんでした。
フードスタイリストの仕事が注目され「料理も演技する」という認識が広がった。だが誤解もあった。この職業が知られるようになり、テレビなどでその「噓のつき方」がもてはやされた時期がありました。ハマグリの貝殻の縁をのり付けしておいて、用意スタート、で焼くとパカッと開くとか。でもそれがフードスタイリストの仕事だということになると、食べものではなく接着剤の使い方が上手かどうかという話になってきます。
おいしくつくらないとおいしそうに撮ることはできない。色がキレイだからと生煮えの状態で撮れば、その生煮えの感じが表れてしまう。ちょうど良くゆで上がっていて色もキレイな写真を撮るためには、一瞬のタイミングを追いかけなくてはならない。
食べものをみずみずしく写すこと。シズル感を追求するとはつまりそういうことで、噓をつくこととは別物です。奇をてらわなくていいから、これはおいしいと思ったものをつくり続けた方がいい。
若い頃、パリでファッション記事を制作していましたが、ファッションはきょう、はやっていたものが明日、腐る。それを知っていたから、「腐らない」料理写真を目指すようになりました。着飾るというか、「こびた」ものを混ぜると、そこから途端に腐ってしまうので。
駆け抜けてきた自身の仕事を、別の視点で振り返るようにもなった。1970年代に雑誌に企画を売り込んでいたときの仲間が、東京・青山のシナリオ・センターで校長をしています。それで今年、仕事で関わった三島有紀子監督の映画「一月の声に歓びを刻め」の宣伝に行ったら、入学することになりました。冷やかしのつもりだったのですが。
これまでフードスタイリストの仕事を通じて見てきたシナリオは設計図のようなものと思っていました。芸術とも思わず、言葉を感じることもなく、それほど興味も持てなかった。でもシナリオを学び始めて、同じ映画に関わる仕事でも違う視点が見えてきて、おもしろい。もともと編集者をしていたので書くことは好きですし。
変貌する日本社会に、食を通じて向き合ってきた。パリ発のファッション記事のアシスタント、編集プロダクションのはしり、フードスタイリストの前身となった撮影補助の仕事。すべて自分の感覚任せでやってきた先にいまがあります。
高校まではけっこういじめられたけれど、その後はフランスでも、帰国後の青山でも、伊丹十三監督からもですが、いろいろ周囲に「ひいき」されて来ました。それでこびたりすることはないのですが、素直にうれしかった。時代的にも日本の社会がどんどん変わっていくタイミングで。
当時の日本の世の中には、出る杭を「いいね」と言ってくれる寛容な空気がありました。そこで気取らず自分を出してこられたのがきっとよかったのでしょう。
独立してからはほとんど寝ないような日々を過ごしてきました。テレビでは今もビールのCMが何種類も流れていますが、ひと頃はそのスタイリングを全て1人でやっていたんだ、と改めて思います。
毎年秋になると各社から「サンマでビール」という企画が出てきます。それを遠回しに「監督さん、サンマはやめません?」と別の提案を促す。それもフードスタイリストの仕事のうちで、単純に仕事量が多いから重ならないような工夫もできます。
料理を見せる写真を、料理を含めた生活を見せる写真に変えた。「おかしいよ、背景用紙の上に食べものを載せて撮るかよ」と突っ張って。
その料理は一体どこで食べるの? どういう人たちが食べるの? そういうことを一つ一つ考えて撮るようになった。それがフードスタイリスト・石森いづみの始まりでした。生活の実体験の中にある食をこれからも考えていきます。
(天野賢一)
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