東京都の南西部に位置する町田市。地図を見ると、半島のように神奈川県側に大きく突き出ている。東京都よりも神奈川県と接している部分の方が多く、「町田は神奈川県」だと勘違いする人も多い。それもそのはず。実は町田はかつて、神奈川県に所属していたのだ。ではなぜ、いまは東京都なのか。背景を探っていくと、当時の政治情勢が見えてきた。

バスも新聞も電話番号も… 町田が神奈川県と間違われる理由

町田が神奈川県に間違われる理由はいくつもある。例えば周辺を走るバスは神奈川中央交通だ。JR町田駅の南口を出た先の住所は神奈川県相模原市で、町田市の市外局番は相模原市と同じ「042」、新聞も神奈川新聞が配られている。

間違えられやすい理由のひとつが、入り組んだ境界線だ。そもそも、東京都と神奈川県の境界は境川という川が担ってきた。境川はかつて大きく蛇行していて、境界線も同じく蛇行していた。それが、川を改修して真っすぐにしたことで、蛇行した境界線が川をまたいでしまったのだ。

JR町田駅南口周辺は特に境界線が入り組んでいる。町田駅が都県境のすぐそばにあるために、町田が東京都なのか神奈川県なのか、わかりにくくなったともいえる。実際、JR町田駅南口から徒歩圏内にある物件では、住所は相模原市なのに建物の名前は町田を冠しているケースが目立つ。

JR町田駅南口にあるエスカレーター。ちょうど都県境をまたいでいて、左が町田市、右は相模原市となる

移管の理由は「上水道の管理」? コレラ騒動が契機

歴史的な経緯もある。町田を含む多摩地区はかつて、本当に神奈川県に属していた。2023年は多摩地区の東京移管130周年という記念の年だ。各地でイベントが開かれるなど盛り上がりを見せた。

「東京移管」ということは、それ以前は東京ではなかったということ。1893年(明治26年)、町田がある「南多摩郡」のほか、「北多摩郡」「西多摩郡」はまとめて神奈川県から東京府(当時)に移管された。

明治政府が廃藩置県を行ったのは1871年(明治4年)のことだ。なぜ20年以上もたってから変更したのか。

「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」は、その理由について「水路ノ関係」だと記す。東京府を流れる上水道、玉川上水の水源が多摩地区にあり、管理のためには東京府に移管した方がよい、というのだ。

「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」は、移管の理由を「水路ノ関係」と記している(国立公文書館所蔵)

東京都が1952年(昭和27年)にまとめた「水道問題と明治26年三多摩編入始末」によると、1886年(明治19年)に起きたある出来事が、多摩の東京移管機運を高めたという。コレラの大流行だ。「多摩川上流でコレラ患者の服を洗濯した」との噂が広まり、東京の水が汚染されるのではと人々を恐怖に陥れた。

当時、多摩川の上流は神奈川県に属していた。この事件を機に、東京都の管理下に置くべきではないか、という意見が強まったのだ。

実は背後に「政治的思惑」 県知事との暗闘の結果

ただ、こうした理由は後付けだ、との見方もある。1980年(昭和55年)に神奈川県が編さんした「神奈川県史」はこう記す。

「これらの理由は東京府市部の行政上の説明としては一応筋が通っているが、これが通るのは西・北多摩郡のみである。南多摩郡の移管理由には東京府の行政上の要請は全くなかった」

多摩川の水源は西多摩郡、北多摩郡であり、南多摩郡まで移管する必要はない、という主張だ。その上で移管は政治的思惑による、と結論づける。ではなぜ南多摩郡が加わったのか。「政治的思惑」とは一体何なのか。

「当時、町田など南多摩では自由民権運動が盛んで、神奈川県知事は手を焼いていました。そこで知事は南多摩も合わせて東京に移管したいと考えたようです」

町田市立自由民権資料館の学芸担当、松崎稔さんはこう話す。

1892年(明治25年)、第2回となる衆議院選挙が行われ、三多摩地区では板垣退助らが設立した自由党が2議席を獲得し勝利した。責任を追及された神奈川県の内海忠勝知事は、自由党が強い三多摩を県から出してしまおうと画策する。

「東京府からすれば玉川上水が通っている北多摩郡と西多摩郡があればいいが、神奈川県知事は自由党が強い南多摩郡も合わせて手放したいと考えたようです」

内海知事は東京府に書簡を送り、「歴史的に三多摩はつながりが深く、南多摩だけを切り離すことは民意に背く」と三多摩そろっての東京移管を求めた。当初、西多摩と北多摩だけの移管を検討していた東京府知事は、こうした動きを受けて方針を転換。三多摩の移管へと進んでいく。

1893年(明治26年)、移管への激しい反対運動が続くなか、三多摩の東京府への移管法案はわずか10日の審議で成立する。町田が東京なのは、こうした歴史的経緯があったのだ。

町田を含む南多摩郡はかつて神奈川県に所属していた(自由民権資料館の展示資料)

自由民権運動が盛んだった多摩地区 板垣退助も褒めたたえる

それにしてもなぜ南多摩では自由民権運動が盛んだったのか。松崎さんは有力者の存在をその理由に挙げる。石阪昌孝だ。石阪は1879年(明治12年)に神奈川県会議員となり、初代議長となる。その後衆院議員となり、私財を投じて神奈川県の自由民権運動をけん引したという。

板垣退助が「多摩は自由党の砦(とりで)」というほど多摩は自由党が隆盛で、町田はその中心地だったのだ。石阪の死後、記念碑の除幕式に板垣退助は式辞を贈り、志が大きく人と群れない、発言に影響力がある、欲がないと褒めたたえたという。

石阪昌孝顕彰碑除幕式での板垣退助の式辞(自由民権資料館所蔵)

大正時代に「多摩県」独立案も 

半ば強引に東京に移された多摩地区だが、その後も所属を巡って揺れ動いた。

1896年(明治29年)には三多摩に現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区の一部を加えて「武蔵県」とする案が浮上。1923年(大正12年)には三多摩を再び神奈川県に戻す法案が鳩山一郎によって提出された。1924年(大正13年)には「多摩県」として独立する構想まで飛び出した。

いずれも成立しなかったが、その過程で住民の意識も変わっていく。当初は東京への移管に対して激しく反発していたが、神奈川に戻す案には住民から反対の声が強まったという。鉄道網が整備され、人やモノの行き来が盛んになるにつれ、次第に東京志向が強まっていったようだ。

現在、町田市の人口は約43万人。東京なのか神奈川なのか間違われやすいということは、それだけどちらとも物理的、心理的距離が近いということでもある。東京と神奈川の間で揺れ動いた街は、長い歴史を経て、どちらにもアクセスしやすい利便性を獲得したともいえそうだ。(河尻定、塚本直樹、高橋丈三郎)

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