若者の孤立を防ぐ立場から
現在、僕は10代から20代前半の若者の孤立を防ぐことを目的とするNPO法人で働いています。
『東京ミドル期シングルの衝撃:「ひとり」社会のゆくえ』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)子どもや若者が孤立する要因はさまざまですが、家庭や学校に居場所のないことがそのような状況に陥らせています。孤立の結果、居場所を求めて繁華街に出歩き犯罪に巻き込まれたり、生活費を稼ぐために犯罪に関わらざるを得なかったり、家のなかに引きこもってしまったりすることになります。
もちろん、繁華街で遊ぶこと、反対に人混みが嫌いでずっと家でゲームしていたいと思うことが悪いことだとはまったく思いません。
しかし、地域コミュニティも希薄になり、そもそも社会のセーフティネットが脆弱な現代日本では、生まれ育った家庭によって将来がすべて決まってしまう「親ガチャ社会」にますます拍車がかかってしまうと危惧しています。このような状況を少しでも改善するために、社会的なセーフティネットを作る必要があります。
一方、『東京ミドル期シングルの衝撃』ではミドル期シングルの大人を対象としています。
「ひとり暮らし」をしている人びとのことを「シングル」と定義し、ミドル期とは35〜64歳のことを指し、前期が35〜49歳、後期が50〜64歳に当たります。シングルは1950年代後半から増加し続け、特に2000年から2020年には156万人から326万人へと大幅に増加しています。この時期に増加したのは男性に顕著に現れている、未婚ミドル期層だといいます。現在ミドル期シングルは東京都区部人口の3割近くをしており、今後も増加していくと考えられています。
本書では、シングルと社会的孤立状態は同義だと述べられていませんが、読み進めると両者は紙一重にあることがわかってきます。第5章「大都市で『ひとり』で生きる――2019年東京区部単身世帯調査から」において酒井計史は以下のように述べています。
いわば、ポスト近代社会のあり方として、あらゆるものが流動的、液状化していく中で、シングルが流動的で、リスクを体現する中心的存在として大都市の中で立ち現れてくるかもしれません。つまり、孤立・孤独、貧困、孤独死などネガティブの側面によって、可視化される存在として捉えられるようになるということです。また、ジェンダーによる違いも無視できません。例えば、貧困は女性シングルにおいてよりリスクが高く、社会的な孤立は男性シングルにおいてよりリスクが高いといえそうです。こうした「状態としてのひとり」のリスクは、多様性の中で普段は目にみえず、不平等や格差が覆い隠されていますが、例えば、個人的には経済的な基盤を失うような大病、社会的には大災害など、ひとたび、非常に困難な状況に直面したとき、リスクの高いシングルに、ふだんの格差・不平等がさらに増幅して現れる可能性があります。先ほどみたように、家族・親族に頼れない場合は深刻な状況に陥ります。(『東京ミドル期シングルの衝撃』226-227頁)。このように、シングルが困難な状況に直面すると社会的孤立に追い込まれてしまう可能性が高いことを述べています。
シングルというステータス
一方で、特に東京や都市部におけるシングルは自立と言われ、社会人としての常識的なあり方であり、故郷や家族、友人などを犠牲にしてでも手にいれるべきステータスだと思われてきました。そして現にシングルであることは、大都市において快適な生活をもたらしてくれるものでした。この点も酒井は以下のように述べています。
大都市に暮らすミドル期シングルの利点は、好きな所へ行けて、好きなことができる、自らの心のおもむくままな、自由さがあることにあるといえましょう。近年、外でひとりで過ごすという「ソロ活」(単独を意味する「ソロ」+「活動」の略)という言葉は、まさに、誰かと一緒にではなく、ひとりで好きな場所へ行き、ひとりで好きなことをして、有意義な時間を過ごすことであり、シングルの生活スタイルを象徴しています。(前掲書、216頁)。ここにも大いに共感するところです。1983年生まれの僕は地域活動や集団行動などを嫌い、いつも「ソロ活」を理想的な状態だと夢見ていました。
ファミコンの発売と東京ディズニーランドの開園の年に生まれた僕は、一方で物心がついたころにはバブルは崩壊していました。いつのまにか世の中では自己責任論が飛び交い、この厳しい世の中を勝ち抜くためには何事も自分一人でできるようにならねばならない。このような言説がドラマや漫画、ゲームなどによって振りまかれてきましたし、それを当然のことと思って過ごしてきました。
その証拠にみるみるうちに隣近所の付き合いは減り、みんなが自己利益を追求することが当然だとされる文化が醸成されていきました。テレビやゲーム機も一家に一台から一人一台へ。携帯電話やパソコン、ウォークマンなどの発展が拍車をかけました。体感として、凄まじいスピードで一人になれる時間が増えていきました。
しかし僕はその時間が心地よかったことを覚えています。
「自助努力と自己責任の物語」は本当か
さらに酒井は、約2500名のミドル期シングルの人びとの休日の過ごし方を調査した結果、5割を超える人びとが家でひとりで過ごしていると答えたことを報告しています。そしてこのようなタイプの人びとには、以下のような傾向がみられるといいます。
(前略)低学歴、低年収、無業、非東京区部出身者、友人・知人が少ない、電話やインターネットでも交流していない、サポートネットワークが弱く、精神的にも身体的にもあまり良くない傾向があるなど、列挙すれば、社会的に望ましいとされることはなく、この点ではシングルの「役割のない個人」として生きる負の側面が強く出ているといえます。(中略)すべてがそうしたシングルであるわけでなく、「おこもり型」の中にも多様性はあるでしょう。ただ、社会的に孤立している、その傾向のある人が、一定数含まれており、孤立している、または孤立するリスクが高いタイプであるといえます。(前掲書、218-219頁)。ここから分かることは、シングルであることに自由と孤立の両面が含まれることです。
さらに重要なことは、僕たちはこのライフスタイルを「自分で選んでいる」と思い込まされてはいないだろうか、という問いです。つまり、自分が今いる境遇は自分で選んだものであり、自己責任であるということ。本来ならチャレンジすることもできたのにしなかった、もしくはチャレンジして失敗したのだから自己責任であるということです。
一方で成功した人(有名だったり、経済的な富を得ていたりする)は自助努力によって自己実現を果たしたのだという物語が語られます。
しかしそれは本当なのでしょうか。
例えば、僕は1983年生まれでバブルを知りません。特に羨ましいとも思わないし、その時代を生きた人びとから話を聞くと、むしろ経験しなくてよかったと思っているほどです。
しかし僕自身、バブル崩壊直後に就職活動をしていたらどう思っただろうと考えるのです。誰でも就職できた状況から、自分のせいでもないのに急に就職氷河期に入ってしまった。梯子を外されたと思うことでしょう。まったくもって自己責任ではありません。
反対に自己実現しているように見える人であっても、完全に自分の努力で成功した人なんて存在しません。もちろん努力それ自体を否定するものではないですが、必ずその人の置かれた環境が左右しているはずです。
「役割のない個人」
終章において宮本みち子と大江守之は、シングルの人びとを「役割のない個人」と表現しています。
人は様々な役割を負って生きています。現代では、公的生活領域においては職業を通して社会的役割を果たし、私的生活領域では子どもや配偶者その他の近親者を気遣い、子育てや家族の世話や介護を担うことが最も重要な役割となっています。また、職場や家庭以外でも何らかの役割をもっています。ところがシングルは、職業上の役割の比率が高く、子や配偶者などに係る役割をもっていません。しかも、中間的生活領域での役割のない人も多いのです。ただし、同居していない親やきょうだいなどへの気遣いや世話を担っている人はいます。(中略)シングルが増えていく社会が、「役割のない個人」の増加と重なるとしたら何が問題になるでしょうか。今、生活保障改革の過程には2つの「個人化」のベクトルが働いています。そのうちの1つは、従来の社会保障制度が解体して自己責任に負わせる個人化のベクトルです。つまり、セーフティ・ネットを取り外して、生活保障を個人の努力と責任に転嫁する新自由主義の方向で、「社会からの個人の離脱」といえるものです。もう1つの個人化は、家族の標準モデルを前提とせず、個人の自由と多様性を認めつつ、社会連帯による生活保障を推進する方向です。たとえば、結婚のあり方を柔軟にし、子どもの人権を擁護しつつ、子どもを産み育てやすい環境を整備するものです。このような施策は、公助や共助という社会的連帯の推進と一体のものと考えることができます。(前掲書、253-254頁)。人は必ず有限の自然・社会的環境の中で育ちます。僕が「ソロ活」を理想だとした背景には、人として担わされる役割を「下ろしていく」ことがクレバーな生き方だと思っていたからだと思います。シングルのもつ自由で自己実現的な側面だけを捉えていたのでしょう。
しかし僕もミドル期前期の年齢になり、バブル崩壊後の低迷する経済状況もいまだ継続している中では、自分のことだけを考えてもいられないという気がしてきました。
自分たちの生活圏で担えそうな役割から
これからの社会について考えるとき、上に引用した「個人化」のベクトルのうち、社会全体として目指すべきは後者だと考えています。
しかし同時に個人レベルで考えているのは、今までの役割を担わされてきた社会ではなく、例えば若者が役割を担いたいと思えるような社会をつくっていきたいということでした。
そのためにはどうすればいいのか。まずは日本全体、世界全体を一気に変えようと思うのではなく、自分たちの生活圏で担えそうな役割を担っていくことから始めてみようと思っています。
個人が変わることで社会が変わり、社会が変わることで個人も変わりやすくなっていくことが、今後の未来を少しでも明るいものにしてくれるのではないか。本書はこのような行動を始める根拠の一つとなる本です。
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