奥の「鼓動」は千葉県産の材料にこだわっており、日本酒で表面を磨いていると「チーズ工房千」の柴田千代さんから説明があった。手前は「要」(千葉県大多喜町)

3月、「本間るみ子と行くチーズの旅」が開催された。海外も入れると78回目になる。今回は千葉のチーズ生産者と発酵文化に触れるのが目的だ。

本間さんは、日本で最初の直輸入によるチーズ専門店「フェルミエ」を立ち上げ、1980年代から当時は珍しかったフランスやイタリアの伝統チーズを発掘しては紹介してきた。近年は日本のナチュラルチーズを世界のコンクールに出展するため尽力している。

目を輝かせてチーズや生産者の話をする本間るみ子さん(千葉県いすみ市のハル フロマジュリ・カフェ)

チーズ愛好者には知らない者がいない本間さんが、新型コロナウイルス禍を経て約3年ぶりに開催する「チーズの旅」とあって、はるばる韓国や東北から駆けつけた参加者の姿も。行き先となった南房総は、江戸中期に8代将軍の徳川吉宗が牧場を開き、近代以降も酪農が盛んなエリアである。

最初に訪れた大多喜町「チーズ工房千」の工房主・柴田千代さんは、本間さんいわく「今いちばん輝いている作り手のひとり」だ。

120年の古民家を自ら改築し、木の壁には蜜ロウを塗って微生物が住み着きやすい環境に整えた。ゆくゆくは、しょうゆや酒の蔵付き菌のように、工房で育った乳酸菌と酵母だけでチーズ作りをしたいと考えている。国内コンテストでは最高賞の農林水産大臣賞を17年、女性初で獲得。海外のコンテストでも国内産の菌を利用した「うぶすな」で入賞した。「ヨーロッパで受け継がれる昔ながらの製法を学びつつ、伝統から一歩進み、日本らしい新しいチーズを生み出そうとする若い世代が育ち、世界と肩を並べるようになった」と本間さんは話す。

その背景には、牛乳消費の減少を受け、製法を学べる講習を行うなど国がチーズ生産を奨励し、チーズ作りを手がける酪農家が急増したことがある。同時に、本間さんが主導し、00年に設立したチーズプロフェッショナル協会が、チーズ文化の普及と生産者の支援活動に努めていることも大きい。

チーズ工房千の見学では、試食タイムにモッツァレラの実演があった。熱い湯の中で練って、長く引き伸ばすパフォーマンスに参加者がどよめき、できたては牛乳のやさしい甘みで口の中が充満するおいしさ。柴田さんが地元の子どもたちに開催している体験イベントでも、この実演は大人気だ。

モッツァレラの実演では、チーズが最も伸びた瞬間、みなが撮影した(チーズ工房千)

次に訪れたいすみ市「ハル フロマジュリ・カフェ」は、店主の吉見真宏さんが近くの高秀牧場の搾りたてミルクを使って4種のチーズを手作りしている。

青カビチーズの「ブルー」は、吉見さんが高秀牧場のチーズ職人だった15年、国際コンクールで最高賞を取ったレシピがもとになっている。口あたりは驚くほどなめらかだ。青カビなのに繊細でクセがない。他も味わいが澄んでいて、子どもでも食べやすい。「パンチが強いヨーロッパのチーズに対して、香りも味も和食のようにおだやかでデリケート。雑味のない"きれい"な味が、日本のチーズの特徴として確立してきた」と本間さんは満足そうだ。

左奥から時計回りにフロマージュブラン、ブルー、スープル、ハル。参加者は一口ずつ味わい、感想を言い合った(ハル フロマジュリ・カフェ)

新潟県佐渡市出身の本間さんが乳製品の豊かさに触れたのは、21歳で遊学した米ロサンゼルスだった。帰国後、チーズ専門の輸入商社「チェスコ」(東京・新宿)に入社。チーズ輸入の先駆者だった創業社長、松平博雄さんの秘書兼輸入業務担当として働くうちにチーズの生まれた背景とロマンに魅せられ、奥深い世界にどっぷりつかった。「カマンベールが村の名前だったことを知ったときの感動は、今も忘れない」という。

1981年に退社後、フランス、スペイン、イタリア、スイスをバックパッカーとして巡り、歴史と文化の洗礼を受けた。半導体の会社で働いたり新橋でサンドイッチ屋を開業したり。そして東京のフランス料理店150軒が掲載されたグルメガイド、84年創刊の『グルマン』を読んだことが人生を決めた。「こんなに数多くレストランがあって、フランス帰りのシェフがいるならチーズ卸をやったら喜ばれるはず」

そう思い立ち、86年に開業したのがフェルミエだ。本間さんがシェフたちに手紙を送ると、どんどん注文の電話がかかってきた。みな、本物のチーズを求めていたのである。

フェルミエは「農家製」という意味を持つ。95年、本間さんはヨーロッパ各国のチーズ農家や大小の生産者を丹念に訪ね歩く旅を本格的にスタートした。その様子は毎月発行の「フェルミエ通信」で報告された。本間さんは、チーズや作り手のいちばん魅力的なところをすくい上げて的確に表現し、読む人はますますチーズが好きになった。

そんな言葉がない頃から「作り手の顔が見えるチーズ」の素晴らしさを伝えてきた功績は国際的に認められている。フランスからは1999年農事功労章シュヴァリエ、2013年国家功労勲章シュヴァリエ、18年農事功労章オフィシエを受章。フランス農業国際見本市のチーズコンクールでは日本人として初の審査員を務めた。食生活にもっと取り入れられるよう、チーズの楽しみ方を解説した著書は20冊を超える。

「チーズは人、動物、文化、風土、歴史の全部とつながっている。値段は高めだが、心の豊かさを求めてお花を1本買うように、作り手の思いがこもったチーズを週末にちょこっと買って食べる。そんな習慣が根づいたらうれしい」

本間さんのチーズの旅は続く。日本のチーズを応援し、年1度はヨーロッパの生産者も訪ねたいと考えている。

食文化研究家 畑中三応子

吉川秀樹撮影

[NIKKEI The STYLE 2024年4月21日付]

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