ロバ、馬、そして「ゾ」
村の中心を離れピン川に近づくと、あふれんばかりの干し草を積んだロバを見かけた。
ロバを引く中年の男性の横で、もう一人の男が薪を背中に抱えて歩いている。その向こうには、田園で働く農民の姿が見える。手刈りで収穫した大麦を、家畜に踏ませて脱穀しているようだ。
干し草を積んだロバと薪を背負う男性(写真:筆者撮影)大麦を脱穀する女性たち(写真:筆者撮影)動物で大麦を脱穀する農民(写真:筆者撮影)ロバ・馬・ゾを使用して脱穀をしている(写真:筆者撮影)家畜の一匹はロバだが、もう一匹は見たことのない動物で、牛でもヤクでもない。
現地では「ゾ」と呼ばれる家畜だと農民が答えた。「ゾ」はヤクとウシの交雑種で、主に農耕のために使用される家畜だという。
ヤクは成獣になるまで時間がかかるので、補完するために作られたとのことだ。
ヤクとウシの交雑種で、農耕のために使用される家畜「ゾ」(パブリックドメイン)カナさんの提案で、部屋の窓から見えたピン川の渓谷に行くことになった。染物に使う野生植物を探したいらしい。
彼女がスピティに来た目的は、チベット仏教の僧侶が着ている赤い袈裟を染める植物を手に入れ、染物を作るため。
寺院で聞き込みをし、1週間近く山々を歩き回り、探しているが、まだ見つかっていないらしい。
スピティ最大の修道院「キーゴンパ」(写真:筆者撮影)赤い袈裟を着て修行をするチベット僧侶(写真:筆者撮影)体が順応できていない中、2時間にわたるトレッキング
それから2時間にわたるトレッキングが始まった。
緑のじゅうたんに見えた渓谷沿いは、近づいてみるとゴツゴツとした茶色い岩で覆われている。途中、山から流れ込む小さな小川があり、岩をピョンピョンと跳ねながら奥地に進んだ。
1時間ほど歩いたところで完全に息が上がった。カナさんは野草探しに夢中で、こちらの様子が目に入っていない。
雄大なピンバレーの景色(写真:筆者撮影)岩は茶色くてゴツゴツしている(写真:筆者撮影)所々に小さな川がある(写真:筆者撮影)「カナさん、ちょっと休まない?」
スピティに来て4日目の俺は、まだ、高地の酸素の薄さに体が順応できていない。二人で座って、雄大な山々と綺麗な水が流れるピン川を見た。
絶景を眺めながら至高の一服
インドから持ってきたライターに火をつけて煙草を吸おうとしたが、風が強いうえに空気が薄いため、なかなか火がつかない。
ダライ・ラマが住む街、ダラムサラの隣に世界中のヒッピーが集まるバクスーという村がある。そこで、インド人ヒッピーに習った、左の手のひらを井戸の形に丸め風よけを作り、その間でライターに火をつける方法を試した。
煙草をふかしながら小さな火種をゆっくりと大きくしていく。最後に大きく息を吸い、煙を肺に入れた。目の前の広大な山を見ながら煙を吐く。煙が、手前にあるピン川とその向こうに見える緑のじゅうたんと交差する。
雄大な山と空を見ながら煙草で一服する(写真:筆者撮影)「うまい、うますぎる」
旅先の大自然の絶景を見ながら煙草を吸うのは、今回の旅で身につけた「旅の楽しみ方」の一つだ。ちなみに、旅に出るまでの46年間、人生で一度も煙草を吸ったことはなかった。
一服した後、ゴロリと岩肌に寝転んだ。空を眺めると、透き通った青空を白い雲がものすごいスピードで流れている。やはり、風が強いようだ。
『花嫁を探しに、世界一周の旅に出た(わたしの旅ブックス)』(産業編集センター)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプしますそのまま10分ほど寝転びながら空を見つめていると、ある異変に気づいた。白い雲が黒い重みを増し、もの凄いスピードで雨雲に変わっていくのだ。
慌てて起き上がると、もともと強かった風が、立ち上がるとよろけるほどの強風に変わっていた。
「カナさん、戻ろう。雨が降るかも」
「そうですね。風もかなり強くなってきてる」
周囲は一瞬にして変貌した。空は黒い雲に覆われ、かつて太陽の光で輝いていた景色はどんよりと暗く、深みを増していく。圧倒的な自然が、別の姿を見せる。
背中に悪寒が走り、「死」を身近に感じた。雄大すぎる自然が恐ろしいのだ。我々は急ぎ足で、ムドの村のほうに向かった。
5分も経たないうちに山が雨雲に覆われた(写真:筆者撮影)しかし、途中から雨がポツポツと降り始め、やがて豪雨になった。雨粒は大きく、直接触れると頭皮や肌に痛みを感じるほどだ。
水に濡れた茶色い岩肌はツルツルとし、時折、滑りコケそうになる。山肌の上を見ると、そこにはゴツゴツとした岩がそびえていた。
それを見て、この道に来る途中のルートを思い出した。
良い景色を見るために、山肌を登ったり降りたりしたのだが、そのとき、上の方に転がる石が尖っていて小さかったことを不思議に思った。
おそらく、崩れ落ちた崖の岩が、川の水の影響で丸くならずに残っているのだろう。
「カナさん、少し山を登ってみようよ。あっちのほうが歩きやすいと思う」
決死のジャンプで増水する川を越える
山を登り始めた。やはり、川のそばよりも少し岩が尖っており、時折砂利にもなっている。下の道よりも歩きやすい。
山の上のほうに砂利が見える(写真:筆者撮影)しかし、さらなる問題が発生した。小川の水量が増し、濁流となっていたのだ。川に沿って山肌を登ると、一箇所だけ川幅が狭い場所を見つけた。
中央には平らな岩がある。その岩に一度着地し、もう一度飛べば、川を越えられるかもしれない。岩を注意深く観察すると、表面は濡れているが少しザラついており、段差もあることがわかった。
何とか行けそうだ。俺は勇気を出して、三段跳びのように右足で岩に着地し、そのまま反対側に飛び越えた。両足は川の水で少し濡れたが、何とか渡ることに成功した。しかし、女性の足には少し厳しいかもしれない。
「ごっつさん、滑りました?」
「少し滑るかも。一回その岩に飛び乗って、体勢を変えてからもう一度ジャンプしたほうがいいかも」
「えー、怖い」
足元が滑って、頭を打ったら大惨事になるかもしれない。脚力が追いつかず、岩に辿りつかなかったら、落下し、川にのみ込まれる可能性もある。失敗は命に直結する。
俺は頭を切り替えた。自分の恐怖が伝播し、彼女の動きに悪い影響を与えてしまってはいけない。表情をゆるませ、余裕を見せた。晴れやかな声ではっぱをかける。
「行ける行ける。真ん中が平らだから大丈夫だよ。飛び移っちゃえば、あとは余裕だよ」
カナさんは少しためらってから片足でジャンプをし、岩に飛び移った。体を曲げ、手で岩を触りながらバランスよく体勢を整える。なんとか一つ目の難関は突破できた。
次はこちらに飛び移ればいい。彼女は蹴り上げる足場を探し、こちらに向かってもう一度ジャンプした。俺は少し高いところから、彼女の手を握り、引っ張り上げた。
「おー、さすが山ガールだね。脚力がすごい」
「あの岩、結構ツルツルしてて、着地したとき、少し滑って怖かったです」
「急ごう。これ以上、雨が強くなるとどうなるかわからない」
二人は辿ってきた道を急いで戻る。途中、ゴーッという唸り声をあげた強風が吹くと、体を折り曲げてしゃがみ込み、風が収まるのを待った。
ダウンジャケットはびしょびしょになり、雨水がパンツの中まで染み込んでくる。身体の体温を奪われ、命の灯火が消えていく感覚に陥る。動いて発生した熱よりも、奪い取られる熱のほうが大きいのだ。
自然の厳しさと人の優しさを思い知る
「自然は優しい」「緑の力」「大自然は心を豊かにする」という都会で見たキャッチコピーが嘘くさく感じられた。本当の大自然はいとも簡単に人の命を脅かす。
ここでは、自然はただの自然であり、人間も野生動物と変わらない。頭と身体を使って戦い、生き抜かなければならない。強い気持ちが心の底から湧き上がってくる。
雨に打たれながら歩くと、1時間ほどでムドの村が見えてきた。家や建物、人間が作り出したものに、ほっとした気持ちが湧く。何よりも、同じ人間がいるということに安堵を感じた。宿に着いたときには、体が冷え切っており、ブルブルと震えていた。
「寒かっただろう。お湯を沸かして待っていたよ。バスルームのバケツに熱いお湯があるから、浴びておいで」
平たい顔をした宿のオーナーは、豪雨の中、帰ってこない二人を心配して待ってくれていた。バスルームで、スピティに到着して初めてお湯を浴びた。体全体に熱が広がり、正常な機能を取り戻していく。
ぼんやりしていた頭も、霧が晴れたようにクリアになっていく。温かさが、心まで包み込み、生きる力が湧いてくる。お湯がこんなにありがたいと感じたのは、生まれて初めてだった。
食堂に行くと、囲炉裏に火が焚かれ、部屋は熱く温まっていた。宿のオーナー夫婦の心遣いが心に沁みる。
温かい部屋でくつろぐカナさん(写真:筆者撮影)「ありがとうございます。ここに来て、初めてお湯を浴びました。本当に感謝しています」
電気が少ないスピティでは、燃料はとても貴重で、お湯で体を温めることをあきらめていた。すると、オーナーはジョークを交えながらこう言った。
「君を温めているのはヤクの糞だ。お湯もヤクの糞で焚いているし、その囲炉裏の燃料もヤクの糞。君は糞に感謝してるんだよ」
そして、ゲラゲラと笑った。奥からオーナーの妻がお茶を持ってきた。
「これを飲んだら温まるわよ。ヤクのバターで作ったお茶。きっと元気が出るわ」
熱いヤクのバター茶を飲むと、喉から胃まで熱さが通っていくのがわかった。体が温まるだけでなく、芯からエネルギーが湧いてくる。
「これ、ヤバいっすね。体に力が入ります」
夫婦は優しい目をして笑った。彼らの笑顔に、ほんの少しだけ目頭が熱くなる。その笑顔には本当に強いものだけが持つ、優しさが滲み出ていた。
宿の優しいご夫婦(写真:筆者撮影)「ヤクがいなければチベット族もいない」
かつて、チベットの英雄、パンチェン・ラマ10世は「ヤクがいなければチベット族もいない」と言った。古の旅人も、ヤクの力で極寒の地を乗り越えてきたのだろう。
2000年も昔から、ヤクとともに生きてきたチベットの山岳民族。人々にとってヤクはただの家畜ではなく、かけがえのない仲間に違いない。
塩味のバター茶が体に染み込むたびに、ヤクへの感謝が湧き上がり、ここに住む人々のことをほんの少しだけ理解できた気がした。
とても美味しい「ヤクのバター茶」(写真:筆者撮影)
*この記事の前半:TVマンが見た「絶滅危惧種と暮すチベット民族」驚く日常(前編)
*この記事の続き:TVマンが見た「絶滅危惧種と暮すチベット民族」驚く日常(中編)
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