50年前、24歳の新米体育教師だった星野富弘さんは、クラブ活動中の事故で首から下の自由を失った。それから2年、絵筆を口にくわえ病室の花を描き始めた。一輪の花に見いだしたのは自然の美しさや生きる力。口には出せない思いを花の絵に託す。
真っ青な空が広がる日だった。1970年6月17日、群馬県高崎市の中学校で体育教師に就いたばかりの星野さんは放課後、クラブ活動で器械体操の指導をするために体育館へ急いでいた。生徒たちを前に、宙返りの仕方を教えるべく、踏み切り板を力いっぱい蹴り宙に舞った。その瞬間、「バァン!!」という音が耳の奥で鳴り響いた。見えるのは天井だけ、ざわめく空気――。生徒たちが心配そうに駆け寄ってくるが、手足がどこにあるか分からなかった。
群馬大学医学部付属病院(前橋市)に運ばれ、検査の結果、宙返りの最中に頭から落ちたことで頸髄(けいずい)を損傷していることが判明した。田植えをしていた父親と母親が泥の付いた長靴のまま駆けつけたのは、その日の夜。教員になったことを誰よりも喜んでくれた両親。けがの重大さを隠そうと体を起こそうとしたが、どこにも力が入らなかった。
肩から下がまひに 口で書く字に苦戦
「夢に違いない」。そう思おうとしたが、現実はさらに過酷だった。肩から下がまひしていたことが影響し、熱と呼吸困難で危険な状態が続いた。群馬の山間部に生まれ、器械体操と登山で培った強固な体力が命をつないだが、手足の自由は失われたまま。「自分は治るのか」。恐ろしくて誰にも聞けなかったが、2年後のカルテにはこう書かれていた。「四肢まひ、機能回復の見込みまったくなし。現在の医学では積極的な治療法なし」
寝たきりの入院生活を送る星野さんの元には、同級生や山仲間らからの手紙が数多く届いた。「短くてもいい、お礼の手紙を書けたら」。上向きのままサインペンを口にくわえたが、頭を浮かすことができず1本の線すら書けない。その様子を見た看護実習生が声をかけてきた。「横向きの姿勢で書いたらどうでしょう」。顔の前にスケッチブックを立ててもらい、ガーゼにくるんだペンをくわえ頭をずらすと、ペン先が動いた。口で書く初めての字。大きく「ア」と書いた。よだれがガーゼから染み出ても、書くのをやめられなかった。
「筆を口に字を書くことは、器械体操と同じだ」。最初はできなくても練習の積み重ねで技を体得したことを思い出した。母にスケッチブックを持ってもらい、一文字一文字を精いっぱい書いた。その頃、前橋キリスト教会で星野さんの話を聞き、毎週見舞いに来てくれる渡辺昌子さんという女性がいた。渡辺さんがある日持ってきたのが、病院に来る途中で摘んだというハルジオン。普段は畑の天敵の雑草だが、眺めているとその美しさに引き込まれた。
絵を学んだことはなかったが、中学時代に山登りを教えてくれた担任の美術教師、冨田克己さんが持ち歩いていたスケッチブックを思い浮かべた。いつの間にか、お礼のはがきはいつも絵が描かれるようになっていた。一輪一輪に向き合ううちに、生きる力の奥深さに気付く。「花に描かせてもらおう」。そのままの美しさを切り取り続けた。
絵を描き始めて6年がたった79年、展覧会「花の詩画展」を開いた。関係者の提案で、描きためた絵の横に思いを文書にして添えた。
【神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら そんな日が本当に来るような気がした】
詩を書くときの言葉 自然に出るまで待つ
最終的には9年続いた入院生活で病室で寝泊まりしながら献身的に看護してくれた母。詩を書いたことはなかったが、口に出せない思いが言葉となった。展覧会は地元の新聞やテレビにも取り上げられ、大きな反響を呼ぶ。会場のノートには共感や励ましの声があふれ、星野さんにとっても喜びや希望となった。その後、花の詩画展は国内だけでなく、海外でも開かれた。
この頃、大きな変化が次々に起きた。まずはあごを動かすだけで操作できる電動車椅子が届いた。母や渡辺さんに車椅子を押してもらう生活だったが、これからは自分で散歩や移動ができるように。星野さんの生活が一変した。
もう1つが渡辺さんとの結婚。入院中に聖書と出会い、74年に病床でキリスト教の洗礼を受けた星野さん。渡辺さんとともに聖書の言葉を心の支えにしていた。生活のメドもたった。「結婚しようか」。80年、星野さんからプロポーズした。前橋キリスト教会で家族や友人に囲まれ、結婚式を挙げた。その時の2人の気持ちも詩に刻んだ。
【結婚ゆび輪はいらないといった 朝顔を洗うとき私の顔をきずつけないように 体を持ち上げるとき私が痛くないように 結婚ゆび輪はいらないといった 今レースのカーテンをつきぬけてくる朝日の中で 私の許に来たあなたが洗面器から冷たい水をすくっている その十本の指先から金よりも銀よりも美しい雫(しずく)が落ちている】
療養を続ける星野さんが絵を描くのは、主に群馬県桐生市の周囲を山々に囲まれた自宅。1日に描けるのは2時間ほどで、1枚の絵が完成するのに平均1〜2週間、長いと20日ほどかかる。詩を書くときには、言葉が自然に出てくるのを待つ。「人によく思われたいと欲が出てしまうと、ダメですから。あいさつみたいに出てくる言葉がいい」
「我が身を切り刻んででも生きる力を富弘の中に送り込みたい」と語った母。2018年、97歳で永眠した。亡くなる3カ月前に病床でキリスト教の洗礼を受けた。その母へのあふれる感謝の思いも、すべて花に託してきた。
【ほんとうのことなら 多くの言葉はいらない 野の草が風にゆれるように 小さなしぐさにも輝きがある】
最近は山を眺めながら過ごす静かな日々が続く。「普段の生活から、何でもないようなところから、何でもないようなものが描けて、それを見た人が何か感じてくれたらいいですね」。今はテーマを、ゆっくりと待っている。
【My Charge】山への憧れ、いまだに胸に 赤城山や浅間山の眺望楽しむ
星野さんの人生に欠かせないものが山だ。登ることはできなくても今でも山への思いや憧れは色あせていない。星野さんは雨さえ降らなければ毎日、電動車椅子を使って散歩に出かけているが、自宅近くの坂の上から、日本百名山である赤城山や浅間山を眺めるのを楽しんでいる。
冨田克己先生に山登りを教えてもらったのがきっかけで、幼なじみで富弘美術館の館長でもある聖生清重さんとともに夢中に。高校時代は小学生の時から憧れていた器械体操部に入ったが、山岳部の部室に毎日のように訪れた。寝ても覚めても考えるのは登山のことばかりだったという。
群馬・新潟の県境にある谷川岳へ足しげく通った。高校で山岳部の部長となった聖生さんは、「星野さんは山岳部員以上にロッククライミングに熱中していた」と語る。谷川岳・一ノ倉沢の岩壁は多数の死傷者を出すほどの国内でも有数の難所だが、星野さんは大学4年の時にその中でも難易度の高い衝立岩(ついたていわ)の正面壁からの登はんをなし遂げた。
器械体操も登山も時に危険をはらんでいる。その両方に打ち込んだことについて、星野さんは当時の自分を「極限状態に身を置き、限界を試したかった」と振り返る。1970年にけがをした後、一ノ倉沢が恋しくなり、沢の入り口まで出向いたことがあった。
「今も突き刺さっているのだろうか」。大学生の時に岩壁に打ち込んだハーケン(ロッククライミングの際に使うくぎ)のことを思いだしながら、目の前の岩壁を見上げていたという。
星野さんが横向きの姿勢で絵や字をかくときに欠かせないのが特別な「画台」だ。絵を描き始めた時は母がスケッチブックを持っていたが、描いている間はくしゃみすらできない。ずっと動かずにいるのは大変なため、当時鉄工所に勤めていた弟が台を手作りしてくれた。上下左右、前後に動かせ、ぐらつかない。
絵を描く間に母の両手が空いたことで、口にくわえた油性ペンを色とりどりのサインペンや絵筆に交換してもらえるようになった。当初、白黒だった花の絵に、独特の優しい色が加わった。鉄パイプや水道の蛇口などを使って組み立てられたその台を、40年以上にわたり大事に使い続けている。
成瀬美和
井上昭義撮影
【NIKKEI The STYLE 2020年10月4日付「My Story」】
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