エド・ズウィックが最近出版した『Hits, Flops and Other Illusions: My Forty Something Years in Hollywood』が、面白い。
『ラスト サムライ』(2003)、『ブラッド・ダイヤモンド』(2006)などで知られる71歳のベテラン監督が映画界に入った頃から現在までを振り返るこの回顧録には、本音、フラストレーション、ハリウッドのリアルが、包み隠さずつづられている。
具体的な業界人についてのエピソードもたっぷり。そんな中で最も興味深いのは、ジュリア・ロバーツと『恋におちたシェイクスピア』をめぐる話だ。
大作の企画が中止に
1998年に北米公開された同作の主演はグウィネス・パルトロウ、監督はジョン・マッデン。ハーベイ・ワインスタインのゴリ押しキャンペーンのおかげもあり、強力なライバルだった『プライベート・ライアン』を制してオスカー作品賞を受賞した。
ここでズウィックとロバーツがどう関係するのかと奇妙に思うかもしれないが、そもそもこの映画はズウィックが監督するはずだったのだ。それを潰したのがロバーツなのである。
ズウィックが脚本家マーク・ノーマンと知り合ったのは、1991年。『グローリー』(1989)でデンゼル・ワシントンをオスカー受賞に導き、テレビドラマ『Thirtysomething』(1987~1991)もヒットさせていたズウィックに、ノーマンは、シェイクスピアを主人公にした恋愛映画の構想を話してきた。
そのアイデアを気に入ったズウィックは、ユニバーサルに売り込む。ノーマンが書き上げた脚本は悪くなかったが、物足りなさも感じたズウィックは、敬愛するイギリスの劇作家トム・ストッパードに書き直しを依頼しようと提案。「ストッパードは誰かが書いた脚本のリライトはしないから無理だ」とスタジオに言われるも、ズウィックは一縷の望みをかけてイギリスに飛び、見事、合意を取り付けた。
ただし、ストッパードが要求してきたギャラは、100万ドル。さすがにそれはスタジオが許さないかと思っていたら、ロバーツが主演に興味を示し、状況が変わった。『プリティ・ウーマン』(1990)で大注目されたスターが出てくれるとあれば、ヒットが期待できる。立派な脚本と理想的な主演女優が揃ったこの映画の撮影準備は着々と進み、ズウィックとロバーツは同じ飛行機でロケ地のロンドンに向かった。
共演希望男優に「私のロミオになって」
その機内で、ロバーツは突然、シェイクスピア役にはダニエル・デイ=ルイスが良いと言い出す。そう聞いて、ズウィックは困った。ズウィックはこの役のために多くのイギリス人俳優と話をしており、その中にはデイ=ルイスもいたのだが、ジム・シェリダン監督の『父の祈りを』(1993)に出演を約束しているからと、断られていたのだ。
そう言ってもロバーツは「私なら彼を獲得できる」と主張。ロンドンの空港に到着するやいなや、「私のロミオになって」というカードと共に、デイ=ルイスに24本のバラを送るよう、アシスタントに命じた。
候補者たちとのオーディションの初日にも、ロバーツは、デイ=ルイスが出てくれることになったから今日の予定をキャンセルしてと言い、ズウィックを混乱させる。デイ=ルイス本人と会って確認すると、彼の答は以前と同じで「シェリダンの映画があるから無理」だった。
望みがかなわなかったロバーツは、その後、レイフ・ファインズ、ヒュー・グラント、コリン・ファースなど優れた俳優が次々やってきてくれても、まるで関心を示さず。そんなことが2週間ほど続いた後、ようやくポール・マッギャンとはなんとか次の段階に進められることになり、衣装を着て、ヘアメイクをしたうえでの本格的なカメラテストが行われた。
ところが、実際にシーンを演じてもらうと、まるでうまくいかないのだ。ロバーツがアクセントに気を取られ、自然な演技ができないせいである。アメリカ人のロバーツはこの役のためにアクセントを習得する必要があり、ダイアレクトコーチからテープを渡されていたのだが、明らかに練習が足りていなかった。まだ23歳の彼女は何もかも嫌になったのだろうか。翌朝、何の断りもなくホテルをチェックアウトして、ロサンゼルスに帰ってしまった。
撮影が目の前に迫り、セットも衣装も完成している段階で主演女優を失ったズウィックは、大パニック。そんな彼を、最初、スタジオは「彼女はきっと戻ってきてくれる」と慰めた。しかしそうはならず、600万ドルと多くの労力を費やしたこの映画は中止になってしまった。
暴君ワインスタインが放った一言
がっかりしたズウィックに次の希望が訪れたのは、1994年のこと。面識のなかったハーベイ・ワインスタインが、ズウィックの『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(1994)を気に入ったとのことで連絡をくれ、「次に作りたい映画はあるか」と聞いてきたのだ。
『恋におちたシェイクスピア』の脚本を見せると、ワインスタインは大乗り気になり、権利を譲ってもらうべく、ユニバーサルに連絡。しかし、ここまでに投資した600万ドルを支払ってもらうことが条件と言われ、またもや道が閉ざされる。
それでも、この脚本はやはり優れているのだと再確認したズウィックは、その後も別の作品を手がけながら、あらゆるところに売り込みを続けた。ワインスタインが経営するミラマックスがパルトロウ主演でこの映画を作るという記事を読んでショックを受けたのは、1997年のことだ。ズウィックの知らないところで、ユニバーサルが欲しがっていた『キング・コング』の権利と交換したらしい。
「この映画を立ち上げ、ここまで育ててきた自分はどう関わらせてもらえるのか」と聞くと、ワインスタインの答は「君はもう関係ない」。それどころか彼は、誰に対してもよくするように、暴言を浴びせ、脅しをかけてきた。
だが、ズウィックが本気で訴訟するかまえを見せるとしおらしい素振りをし、プロデューサーの肩書をくれると約束。ズウィックが監督もしたいというと、「君は『マーシャル・ロー』(1998)の撮影があるだろう」と言われた。ワインスタインによれば、すぐに製作に入ることはユニバーサルとの条件なのだという。
新たな監督にはマッデンが、シェイクスピア役にはレイフ・ファインズの弟ジョセフ・ファインズが決まり、映画は完成。興行成績も批評も良く、アカデミー賞にも13部門で候補入りした。その授賞式で、ズウィックはまたもや侮辱を受けることになる。
ズウィックは蚊帳の外に置かれた
事前の打ち合わせで、作品賞を受賞した場合、プロデューサーであるドナ・ジグリオッティ、デビッド・パーフィット、ズウィックは、その順番で受賞スピーチをすることとされていた。
だが、ワインスタインと裏で口合わせをしていたのか、ジグリオッティは自分とパーフィットが話し終えると、ワインスタインをマイクの前に連れてきたのだ。3人とも、映画が実現するまでの長い道のりについて語り、貢献した人たちを名指しして感謝したが、真横にいる、そもそもこれを立ち上げたズウィックの名前は一度も出てこない。
そのうちに時間が来てしまい、結局、ズウィックはひとことも話せなかった。この時、ズウィックはワインスタインを舞台から突き落としてやりたいと思ったと、本の中で告白している。
そのワインスタインは、今や性犯罪者としておそらく死ぬまで獄中生活を送る身。「オスカーを牛耳る男」と呼ばれたのは遠い昔だ。逆に、今も大スターの地位を保ち続けているロバーツとは、あれ以後、一度も話していない。
ロンドンに向かうフライトの中で、ロバーツはズウィックに、自分はいつも共演者と恋に落ちるのだと告白してきた。実際、彼女はその直前に『フラットライナーズ』(1990)の共演者キーファー・サザーランドとの婚約を結婚式の数日前に破棄したし、その前にもやはり共演で知り合ったリーアム・ニーソン、ディラン・マクダーモットと交際している。「彼女は愛を探している、おびえた若い女性だったのだ」と、ズウィック。そんな彼女を、今さら恨む気持ちはない。
結婚寸前までいったキーファー・サザーランドとのツーショット(写真:AP/アフロ/1991年第63回アカデミー賞にて)鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。