保存樹木だったが、指定解除され伐採されてしまったケヤキの木(写真:飯田りえさん提供)

区の「保存樹木」に指定されていた、20メートルものケヤキの木。近隣住民に癒やしをもたらしてきたその大木が、ある日突然、伐採されることになった。所有者が保存樹木の指定を解除し、マンション開発されることになったのだ。

たかが1本の木、にすぎないかもしれない。指定を解除した所有者にも、マンション事業者にも法的な落ち度はない。それでも、この1本の木の話は今の日本における街づくりの課題を映し出している。考えてみたい。

ある日突然伐採が始まった

「私も、まさか切られることはないだろう、と思っていたんです。それが、ある日いきなり目の前で枝の伐採が始まっていて……」

東京・世田谷区に住む飯田りえさんは、そのときの「衝撃」を振り返る。

閑静な住宅街の一角にある敷地には、かつて大きな邸宅があり、その敷地内に、20メートルをゆうに超えるケヤキの巨木は立っていた。飯田さんの自宅からはそのケヤキの木がよく見え、都会でありながら自然豊かなこの地域での暮らしを飯田さん一家は楽しんでいた。

ところがある日、飯田さんは窓の外の光景に目を疑う。ケヤキの木に人がよじ登り、チェーンソーを手に枝をバサッバサッと切り落としているのだ。4月半ばのことだ。

その敷地には、4階建ての中層マンションが建設される予定であることは飯田さんも知っていた。でも、あのケヤキの木は区が指定する保存樹木のはず。飯田さんは、慌ててマンションの開発事業者に問い合わせた。

担当者から返ってきたのは、衝撃の言葉だった。「その木は、保存樹木の指定を解除されているので“元・保存樹木”です」。世田谷区からも「(保存樹木の)登録解除されている」という答えが返ってきた。

ケヤキにつけられていた保存樹木のプレート(写真:飯田さん提供)

保存樹木は所有者の意思で解除できる

「保存樹木」制度とは、世田谷区が「みどりの基本条例」にもとづき、区内の樹木や樹林地を保存樹木として指定する制度だ。同区のホームページには次のように記載されている。

世田谷区には、国分寺崖線や河川、湧水、農地や屋敷林等、長い年月をかけて育まれてきたみどりに恵まれた住環境があります。この制度は、大切に育てられてきた樹木や樹林地を次の世代に残していくための取り組みの一つです。

保存樹木には今回のケースのように個人・法人が所有する私有地の樹木も含まれ、所有者の同意が得られれば区が指定することができる。所有者の負担にならないよう、枯れ枝や不要な枝の剪定など、区が維持管理の一部を支援する。

一方、保存樹木が枯れたり、土地を売ることになるなど、伐採しなければならない事情が生じたときは、所有者が指定を解除するために「伐採等届」を提出する。「届出」とはいわば、自治体側が受理すれば自動的にその効力が発生するもので、行政に検討・判断の余地はない。

(出所:世田谷区のホームページより)

世田谷区の場合、所有者から指定解除の事前相談の際に、同じ場所、あるいは、移植など残す余地がないか所有者に検討をお願いしているという。ただ、移植に対する区助成金50万円支給はあるが、「大木の場合それではまったく賄えない。大木の移植は、高額なことに加え、移植先の場所の有無や、移植時期が限定されたり、そもそも樹木の種類によっては移植が難しい」(世田谷区みどり政策課の黒岩さや香課長)ため、移植作業も容易ではない。

現在、世田谷区における保存樹木は1662本。2011年〜2020年まで1800本台で推移してきたが、ここへきて指定解除が指定を上回っていることで減少が続いている。背景には「老木化や土地活用の変化が増えてきている」(黒岩課長)ことがあると見られる。

今後さらに減っていくことが見込まれるが、保存樹木1本のために住民の声を拾うのは難しというのがスタンスだ。

「今の制度設計の中では、所有者の理解があってこその保存樹木。そこまで大きくなるまで世話をして、切らなかったから残ったという側面が大きい。なので、樹木に対しての制限につながるようなことができるか、と言えばそれには課題が多い。制限を設けすぎると、逆に木を育てたり、指定することを避ける人が出てくるという懸念もあります」(黒岩課長)

「声を上げなければ、好きなようにされてしまう」

とはいうものの、自治体側の事情をよく知らない飯田さんにとって、突然の指定解除のショックは大きい。

「“元・保存樹木”って何? そもそも保存樹木の登録ってそんな簡単に解除できるの? と、最初に聞いたときにはびっくりしましたね。所有者やマンション事業者が伐採しなければならない事情はわかるのですが、保存樹木を維持管理する予算も区民の税金で賄われているはずですから、住民に説明もなく登録解除するというのもどうなんだろう……とモヤモヤばかり残りました」(飯田さん)

これまで何かに対して抗議などしたことはない。だが、マンション開発を手掛けるオープンハウスなどに「周知されていないのはおかしい」と疑問を投げかけ、伐採の取りやめを要請した。

同時に「自分が声を上げなければ、好きなようにされてしまう」と、意を決してnoteやFacebookを通じて疑問を投げかけたり、区議会議員に掛け合ったり、近隣を回って署名活動も始めた。

飯田さんがケヤキの話をすると、「今日いきなり切られ始めてびっくりしちゃって……」「保存樹木だから残されるのかと思っていました」と多くの住民が同じ思いを打ち明けてくれた人もいた。

世田谷区の「中高層建築物等の建築に係る紛争の予防と調整に関する条例」(中高層条例)によると、隣接区域(10メートル)の住民に対しては開発事業者の説明義務がある(第7条)ので、説明の機会はあったという。ただし、「説明」とはあくまでマンションの建設についてであり、保存樹木の指定解除・伐採についての話は特になかった。世田谷区側も中高層条例は伐採には適用しないというスタンスだった。

一方、事業者側からすれば、適正な手続きを経て事業計画を進めているにすぎないので、計画を止める理由がない。「ケヤキは避難路にあたる」「敷地内にこの大木は移設できない」といった説明のほか、費用や管理面の課題も説明されたという。

本件についてオープンハウスに問い合わせたところ、「行政のルール・指導に従って進めております。また、近隣住民の皆様とも協議をしながら、適切に進めております」との回答が返ってきた。

実はこうした保存樹木をめぐる訴えは各地で起きている。

杉並区でも、区の保存樹木に指定されている25メートルのケヤキの木が、やはりマンション用地となったことを受け一方的に指定を解除された。住民有志が署名サイト「Change.org」で伐採反対を訴えたところ、1万人を超える署名が集まった。しかし、署名には伐採計画を止める効力はなく、2023年8月にマンション事業者の手によって伐採されている。

法的には保存樹木の伐採を止めるのは難しい

実際、法的には今回の件も含めて、景観保護を理由に保存樹木の伐採を止めることは難しい。

「そもそも『その木は誰のもの?』というと、当然ながら所有者のもの。切るのも保存するのも、その所有者の自由であり、保護すべき権利。その権利に制約をかけるのは重大な人権侵害となる」と、不動産法務に詳しいAuthense法律事務所の森田雅也弁護士は説明する。

例えば、所有権を制約するのであれば、他の権利との調整問題になる。「訴訟によって、所有者や開発事業者の権利の制約を是とするほどの侵害利益があるかを認めさせることはきわめてハードルが高い」(森田弁護士)。

また、人格権から導かれる「まちづくり権」にもとづいて周辺住民が開発工事の差止請求を起こす方法もあるが、ここで主に想定されるのは騒音被害などのケース。今回のような景観保護のケースには当てはめにくいという。

保存樹木を残す究極の方法はその土地自体を買収するしかない。が、「例えば保存樹木と調和したマンション開発を行うことでより収益を上げられる提案ができるなど、所有者や開発者のメリットを訴えることができれば協力してくれる可能性があるのではないでしょうか」(森田弁護士)。

土地の所有者と開発事業者の合意にもとづき、適正な手続きによって保存樹木が指定を解除され、伐採される。そのプロセスに法的な落ち度はない。しかもケヤキの木1本じゃないか、と言われればそれまでだ。だからといって地域の景観を形成し、住民に親しまれてきた保存樹木が次々に姿を消していく状況を看過してよいものだろうか。

そうした中で、今後地域の開発やまちづくりにおいてカギを握るのが住民による合意形成だろう。森田弁護士も、「住民の意向を反映させたいのであれば、訴訟などを提起するのではなく、事前の計画段階において民主的な合意形成のプロセスを踏むことが望ましい」としている。

都市開発に詳しく、新宿区や渋谷区の景観審議会委員の経験もある東北大学大学院工学研究科の窪田亜矢教授も、「今回の保存樹木制度をめぐる問題は、指定にしても、指定解除にしても、住民が合意形成に関与できるルートを設けることは自治体の政策としてできることです」と指摘する。「ただ、実態としてそうなっていないことが残念です」。

景観や建造物保存に対する意識の違い

欧米では一般的に、都市開発において歴史的に価値のある景観や建造物を保全しようとする意識が高く、住民が合意形成に関与できる仕組みが確立されている。

例えば、ニューヨーク市では1965年に「歴史的環境保全条例」を制定。歴史的保全地区に指定されたエリアで再開発を行う場合、市長の任命と市議会の同意を受けた「歴史的環境保全委員会」が開催され、住民に意見を聞いたうえで保全すべきかどうかを指定する。

ニューヨークには100以上の保全地区エリアがあり、不動産開発などをする場合には、事業者と住民の話し合いがきちんと行われるという。

「本来、開発というのはそれだけの労力が必要なもの。資本主義の父といわれるニューヨークでも、事業者と住民が膨大な時間をかけて都市のあり方を議論するのが、当たり前のこととして受け入れられている」(窪田教授)

一方、「日本の自治体の多くには『開発=まちを発展させてくれるもの』という意識があり、開発事業者に対して一方的に協力・支援する傾向がある。そこでは住民の意見は『開発を妨げるもの』とされるので、結果として開発がブラックボックスのまま進んでしまうのです」(窪田教授)。

ニューヨークの事例では、住民が合意形成に関与できる仕組みはあるが、その前提となるのはまちに誇りを持つ市民の「思い」だ。せっかくアクセスの権利とルートがあっても、住民が声を上げなければ状況は変わらない。

「行政はあくまで住民の生活を助ける主体であり、行政が主役ではありません。その行政を動かし、保存樹木の指定や指定解除に対して住民参画の仕組みをつくるためにも、まずは住民の側が声を上げる必要があります」(窪田教授)

まちづくりにおける「文化」の醸成が重要に

窪田教授がそのカギに挙げるのは、まちづくりにおける「文化」の醸成だ。「自分たちの地域の住環境は自分たちで守っていこう、という文化を、その地域の中で育んでいくことが重要です」(窪田教授)。

4月26日、大ケヤキの木はマンション事業者によって“計画どおり”伐採され、姿を消した。今回の問題を提起した飯田さんは今、大きな喪失感を抱えている。

伐採されるケヤキ(写真:飯田さん提供)

「正直にいうと、自治体や開発事業者から面倒くさがられているだろうな、と思うこともあります。でも、私が声を上げなければ、あの場所に確かにあったケヤキの木が本当になかったことにされ、人々の記憶からも消えてしまう。これ以上同じことを繰り返さないためにも、私なりに発信する活動を続けていきたいと思います」(飯田さん)

(写真:飯田さん提供)

日本では今後、空き家や相続問題、土地や建物の老朽化などもあり、各地で大小さまざまな開発が行われるだろう。多くは所有者や開発者の意向にそうことは「仕方ない」のかもしれないが、住民側も自らが住む地域に主体的に関わる意識を持つ必要があるのではないだろうか。

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