強引に身内を出世させた道隆だったが…
手段を選ばなかった、という意味では、父の藤原兼家にも勝っていたかもしれない。兼家の長男にあたる藤原道隆のことだ。
兼家の死後、政権を握った道隆は、自分の身内をどんどん引き上げていく。円融天皇の中宮にあたる藤原遵子がいるにもかかわらず、道隆は遵子を皇后として、自身の娘である15歳の定子を一条天皇の中宮とした。
すでに皇后、皇太后、太皇太后が「中宮」と称されているなかで、4人目の中宮を強引に誕生させることとなった。藤原実資は日記『小右記』にて「皇后4人の例は聞いたことがない」(皇后4人の例、往古、聞かざる事なり)と記している。呆れる表情が目に浮かぶようだ。
道隆は、さらに落飾した妹の詮子を女院とし、一条天皇の後見としての役割を与えている。詮子には「東三条院」の女院号が贈られることとなった。あとは、自分の息子の伊周をできるだけ出世させておけば、自分にもしものことがあっても安泰だ。そんなふうに考えていたことだろう。
ところが、いつの時代も、権力者の強引なやり方はどこかでしっぺ返しがくるものだ。結果的には、そんな道隆の政権固めは裏目に出ることになる。
「出世おねだりモンスター」と化した藤原伊周
長徳元(995)年4月10日、道隆は43歳で死去。『栄花物語』に「水を飲みきこしめし、いみじう細らせ給い」とあるように、しきりに水を飲みたがったとある。酒の飲みすぎなどによって糖尿病が引き起こされて、死に至ったようだ。
後継者として有力視されたのは、道隆の息子で内大臣の藤原伊周である。道隆は亡くなる1週間前の4月3日に関白を辞職。その翌日の4月4日に、伊周は「関白の随身兵仗を自分につけさせてください」と一条天皇に申し出ている。随身兵仗とは、関白の護衛を行いながら、その威厳を知らしめる存在だったが、それを自分につけてほしいというのだ。
内大臣の身でそんなことを言い出すのは、さすがに勇み足だったようだ。伊周ウォッチャーでもある実資は、もちろん『小右記』で、このことに触れている。
「前例がないことではないか。稀有だと言うべきことだ」
アホらしい、という声が聞こえてきそうだが、伊周が藤原詮子にまで働きかけると、さらに表現をエスカレートさせている。
「このことはきっと嘲笑されるだろう。ようやく顎が外れるほどのことだ」
伊周はというと、そんな周囲の冷たい目もなんのその、一条天皇の動きが鈍いと見るや、御前に参入して、自ら一条天皇に抗議する始末。父が病によってどうなるかわからないなか、精神的にも不安定だったのかもしれない。
このような伊周の暴走に、眉をひそめた公卿は、実資だけではなかっただろう。
道隆は伊周のためを思ってどんどん出世させたが、結果的には孤立を招いたといってよい。それでも、道隆は病床においてもなお、息子を思い、一条天皇に「伊周を関白にしていただきたい」と奏上しているのだから、どうしようもない。
注目すべきは、これに対して、一条天皇はきっぱりと関白の任命を拒否していることだ。
伊周への反発があちこちから起きていることは、一条天皇も感じていただろう。また、自身も要求がエスカレートするばかりの、道隆と伊周の親子にうんざりしていたのかもしれない。
そして、何よりも母の詮子が、伊周の関白就任を望まなかったのが、一条天皇の気持ちを固めたに違いない。詮子からすれば、伊周が関白になれば、その座は伊周の息子や弟に引き継がれていくのは明白であり、何のメリットもない。
詮子はかねてから、兄弟のなかで、弟の道長を可愛がっていた。道長が2人目の妻である源明子との縁談をまとめたのは、詮子の働きかけがあったともいわれている。詮子とすれば、道隆の次は道兼、その次は道長という絵を描いていたのだろう。
道長が建立した法成寺跡(写真:ogurisu_Q / PIXTA)一条天皇からしても、後見である国母の詮子の意向は無視できない。前述したように、道隆は、妹の詮子を一条天皇の女院とすることで、自らの影響力を高めようとしたが、そのことが結果的には、息子・伊周の関白就任を遠ざけることとなった。
「内覧」の地位をフル活用する藤原道長
道隆が死去して17日後の4月27日、一条天皇は、道隆の弟で右大臣の藤原道兼を関白に任命する。しかし、すでに疫病に冒されていた道兼は5月8日、35歳でこの世を去ってしまう。
「七日関白」と呼ばれるように、道兼が政権を握ったのは数日のみだったが、その意味は大きかった。道隆から息子の伊周、ではなく、弟の道兼へといったん継承されたことで、その後は、弟の道長へという流れができたからだ。
とはいえ、このときまだ権大納言の道長は、内大臣の伊周より下位であり、いきなり関白にするのは難しい。また、一条天皇からすれば、伊周は妻・定子の兄でもある。母の意向が重要とはいえ、極端な人事を行うことへの抵抗もあったのかもしれない。
道長には「内覧」という地位が与えられることになった。内覧とは、関白に準じた役職で、天皇に奏上する文書を事前に読める役職となる。内覧の地位が置かれるのは、23年ぶりのことだったが、例外的に務めた人物がいる。それが伊周だ。
道隆は、自身が病に苦しみ、政務を行うのが難しくなると、「関白が病を患っている間、もっぱら内大臣に委ねる」として、一条天皇にも受け入れさせている。このときに、条件付きではあるが伊周が「内覧」に就いたが、父の死後には外されている。
つまり、道隆からすれば、病が重く死が近づくなかで、なんとか伊周の関白就任の道筋をつけておこうと考えたのだろう。「内覧」という20年以上置かれていなかった地位を引っ張り出して、息子に与えることになった。
ところが、今度は道長がその「内覧」という立場をフルに活用することになる。摂政も関白も置かないまま、道長は内覧の座を約20年、手放すことはなかった。
前代未聞の「一帝二后制」はなぜ生まれたのか?
道隆が自分の権力を保持するために行ったさまざまな企てが、なぜか道長への好アシストになっているのが、なんとも皮肉である。なかでも決定的なのは、道長が自分の娘・彰子を一条天皇の中宮としたことだろう。
このとき、一条天皇には最愛の妻、定子がいた。999年11月7日、定子は待望の第一皇子・敦康親王を産んでいる。だが、道長は同日に娘の彰子の入内を強行し、しかも強引に「中宮」にしている。
その際に、もともとの中宮である定子を「皇后宮」と号することで、道長は前代未聞の「一帝二后制」を実現させることとなった。道隆が娘を中宮にするために「皇后と中宮は別のもの」という理屈を作ったのを、道長はちゃっかりと応用したことになる。
結局、道隆の娘・定子は尼となる道を選ぶことになる。そして、息子の伊周はといえば、勘違いから花山天皇に矢を放つという不祥事をやらかして、太宰府へと流された。
いよいよ、道長の世が始まろうとしていた。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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