企業の目的は、今も昔も、共通善の促進にあるということを忘れなければ、企業は人々を協力させ、偉大な事業をなしえることができます(写真:Ryuji/PIXTA)企業は世界の動向につねに多大な影響を及ぼしてきた。そして企業は、誕生した当初から、共通善(社会全体にとってよいこと)の促進を目的とする組織だった。しかし今、企業はひたすら利益だけを追い求める集団であり、人間味などとは無縁のものであると考えている人は多い。では、企業はどこで、どのように変節してしまったのか? 今回、古代ローマの「ソキエタス」から、現代の「フェイスブック」まで、8つの企業の功罪を通して世界の成り立ち知る、『世界を変えた8つの企業』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

過去2000年の企業の目的

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社会で広く信じられてきた考え方を覆すようなことを書くのがひとつの流行になっている。世の中の全員がじつは間違っていたと論じられることもあれば、まったく新しい洞察が提示されることも、世界が見た目よりも複雑であることが指摘されることもある。

しかし、社会で広く信じられてきた考え方は、だてに広く信じられてきたわけではない。そこには知恵が含まれている。いつも正しいとか、例外も条件もないということではない。

アリストテレスが政治哲学について述べているように、「それはほとんどの部分において正しい。おおよそ、大要において正しい」ということだ。古くから知られてきた真実を捨て去るのでなく、それを取り戻すことが最善の方策である場合もある。

本書がめざしたのは、過去2000年のあいだに人類が学んだことを明らかにすることだった。企業とは何か、企業は何のためにあるのかについて、これまでにどのような考え方があったのかを振り返り、それをなんらかの形で現代に生かそうと試みた。特に、ひとつの根本的な原則に注目した。すなわち、企業の目的は、今も昔も、共通善の促進にあるということだ。

企業は2000年以上前から存在し、環境や背景のまったく異なるさまざまな社会の中で設立されてきたが、つねに国家やその利益と密接に結びついていた。

古代ローマでは、「国家の屋台骨」と見なされ、急速な拡大を続けた国の公共事業を支えた。

ルネサンスのフィレンツェでは、貴族や、聖職者や、新興階級の商人たちの野心的な計画の資金源として活用された。

エリザベス朝の英国では、王国の領土を拡大し、新しい市場を開拓するために創設された。

米国の南北戦争時代には、北軍の救世主と目され、大陸横断鉄道の建設を通じて国民の再統合に貢献した。

要するに、企業は社会に益するために存在してきたのであって、社会を害するために存在してきたのではないということだ。

企業は悪徳の道に進んでしまうのか?

しかし、企業が社会の利益を守るために作られたものだからといって、実際にもそうするとは限らない。

歴史上にはそのような本来の務めを果たさなかった企業の例がいくらでもある。共和政ローマの徴税を請け負っていた企業は、最後には、領民を奴隷にし、元老院に腐敗を招いた。

メディチ銀行は、ギルドから政治的な権力を奪い、メディチ家の個人的な野心のために銀行の資産を流用した。

東インド会社は、インドからボストンまで、世界各地で英国を争いに巻き込んだ。

南北戦争後、ユニオン・パシフィック鉄道は米政府をだまし、貧しい農民たちに法外な運賃を課した。

企業が最後には必ず利欲に目がくらみ、悪徳の道に進んでしまうというのは避けられないことなのか。企業の歴史とは、結局のところ、大きな期待と失望の繰り返しでしかないのか。企業が世界という舞台で果たす役割について、社会はだまされるだけなのか。

そんなことはない、というのがわたしの考えだ。歴史を通じて、企業は人的労力を生産的な事業へ振り向けるのに際立った力を発揮してきた。

ヘンリー・フォードが自動車を開発し、それから20年もせずに、1チームで1日1万台の自動車を生産できる体制を築いたのは、まさに偉業と呼ばれるのにふさわしい。

エクソンの技術者が世界じゅうで油田を探して回り、海底や北極圏の氷に閉ざされた土地から石油を取り出すことに成功したのは、畏怖の念を起こさせる。

マーク・ザッカーバーグのプログラマーチームがフェイスブックを、世界の何十億人というユーザーを抱えるウェブサイトへと育てたのは、壮大すぎて気が遠くなるほどだ。

そこには当然、悪事もあるが、崇高なものもある。企業は、その核心部分においては、協力の大切さ、つまり人々が同じ目標に向かって力を合わせることの大切さの証拠となるものだ。

企業が経済的な奇跡を起こせるのは、人間はひとりで取り組むより、仲間といっしょに取り組むことでより大きなことを成し遂げられるからにほかならない。このことは人間の性質と資本主義の制度を賛美する理由にもなれば、その未来を楽観できる理由にもなる。

企業は政治に関与すべきではない

社会の利益のために企業が作られたのだとしたら、企業がその務めを果たしているかどうかはどのように確かめればいいのか。ここにむずかしさがある。社会の利益とは何かについて、人々の意見ははげしく対立しているからだ。

移民の受け入れを制限するべきだと考える人もいれば、もっと増やすべきだと考える人もいる。富の再分配を推進するべきだと考える人もいれば、そうすべきではないと考える人もいる。

教育を無料にするべきだと考える人もいれば、教育を民営化するべきだと考える人もいる。

企業はこれらの議論に積極的に参加するべきなのか、それとも、利益を追求することが結果的にはいちばん社会への貢献につながると信じて、黙々と利益の追求に励むべきなのか。

企業の歴史からは、これらの問いを考えるうえでのヒントが得られる。

企業が政治に関与すると、身の丈をはるかに超えた大きな役割を担うことになりがちだ。

東インド会社は軍隊を創設して、ベンガル地方を征服したうえ、1世紀以上にわたって、インド亜大陸を統治して、自社の繊維貿易の利益を守ろうとした。

エクソンは数十年にわたり、米国の外交政策と環境規制に影響力を行使した。

現在、フェイスブックのサイトでは、わたしたちが何を見て、何を知るかはフェイスブックのアルゴリズムで決められており、市民の議論はその影響下にある。

ここからいえるのは、企業が社会の価値観を醸成するときには、少なくとも、十分に慎重になるべきであるということだ。企業がすることの影響は、個人がすることの影響とは比べものにならないぐらい大きい。

わたし自身は、企業は政治にはいっさい関わらないようにするべきだと考えている。共通善とは何かに関して、企業になんらかの根本的な知恵があるわけではない。ならば企業は、民主的な政府によって設けられた基準や、あるいはその期待に沿って行動するべきだろう。

遵守すべき資本主義の精神

これは個々の社員が政治に参加すべきではないという意味ではない。むしろ個々の社員は、それぞれひとりの市民として、積極的に政治に参加するべきだ。

政府が労働者や投資家や経済の利益のことを考えるのは、望ましいことだし、不可欠なことだともいえる。創業者も、資本家も、重役も、市民のひとりだ。

しかし、世論を操作したり、社会の目標を定めたりする手段として企業を使ったら、企業の性質を根底から歪め、あくまで共通善を促進するための道具だったものを、共通善とは何であるかを決めるものに変えてしまう。

これは資本主義の精神に反する。プレーヤーが自分に都合のいいように勝手にルールを決められるゲームのようなものだ。そんなゲームは避けるべきだろう。

(翻訳:黒輪篤嗣)

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