OSINT(オープンソースインテリジェンス)が注目される昨今、人生の終わりに触れられるオープンソースも存在する。情報があふれて埋もれやすい現在において、個人の物語を拾い上げて詳細を読み込んでいく。
この記事の画像を見る(7枚)華厳滝の滝口に刻まれた「巌頭之感」
自ら命を絶つときに書いた絶筆の写真が単独の商品として広く流通したのは、筆者が調べた限り、日本では藤村操(ふじむらみさお)の「巌頭之感」が最初だ。
16歳の藤村が日光の名瀑・華厳滝に身を投げた日は1903年5月22日。飛び級で旧制中学を卒業し、東京帝国大学の予備門から独立した第一高等学校(旧制一高)に入学して8カ月後のことだった。
若きエリートが名瀑で命を絶ったというインパクトを何倍にも補強したのが、この巌頭之感だ。
150文字弱の絶筆は滝口に伸びたミズナラの大木の幹を削って墨書きされており、その全文が複数のメディアに載ったことで、彼の死は現在にいたるまで特別なものとなった。漢字表記を現代風に改めるとこう書かれていた。
<巖頭之感悠々たるかな天壤、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以てこの大をはからむとす。
ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチィーを値するものぞ。
萬有の真相は唯だ一言にしてつくす、曰く「不可解」
我この恨を懷いて煩悶 終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
はじめて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。>
藤村の晩年の行動や学友が残した手記などを丹念に追いかけた猪股忠氏は、自殺の背景には学業に対するモチベーションの低下や成績不振からくる落第の焦りがあったとみている(『追跡 藤村操』)。しかし、そうした個人レベルの悩みはこの絶筆を前に隅に押しやられ、「藤村操は哲学的に死んだ」というヒロイックなストーリーが定着してしまった。
この絶筆が誰かの創作物、あるいは脚色されたものだと疑う人がいないのは、写真という決定的な証拠が残されているからだ。そしてその写真は絵はがきというかたちで流通し、多くの人の目に焼き付いていった。
「巌頭之感」絵はがき(筆者撮影)自殺した人の絶筆が商品となり、120年後の現在はオープンソースの資料にもなっている。いまの常識では相当起きにくいプロセスを辿ったことは間違いない。一方で、もう少し時代が早ければ、商品化されなかった可能性が高い。そんなレアな存在である「巌頭之感」の背景には何があったのか。
絵はがきブームの草分け
まず注目したいのは、「巌頭之感」が撮影されたという事実だ。
1903年当時、カメラ技術はすでに全国に広がっており、各地で写真館が営業していた。ただ、趣味としての撮影が広がるのは1910年代に世界中でヒットした「ヴェスト・ポケット・コダック」の登場を待たなければならない。つまり、写真を残せる人材が相当に限られていた時代だった。
そうした中で地元の写真家がいち早く滝口に登って「巌頭之感」を撮影したのは、藤村の自殺のニュースバリューを見越してのことだったと思われる。
実際、事件は数日後に複数の新聞が報じられてたちまち全国区の話題となった。報道の中で「巌頭之感」も知られる存在となり、すぐに後追い自殺が多発したことから、1カ月もしないうちに行政の判断で削り取られている。自殺の名所の象徴となる絶筆をそのままにするわけにはいかなかったのだろう。後日、ミズナラ自体も伐採された。
しかし、すでにカメラに収められた「巌頭之感」の拡散をとめることはできなかった。写真を印刷した絵はがきは、観光土産として飛ぶように売れたという。
当時の新聞はまだ木版印刷が主流で、大判の写真が刷れる網版印刷が広がるのは日露戦争が始まる1904年以降のことになる。写真の価値をお金に換えるなら、絵はがきなどとして販売するのが合理的な時代だった。
ちなみに絵はがきの全国的な普及も、逓信省が1904年に日露戦争の「戦役記念絵葉書」を発行したことがきっかけで起こったといわれる。その後は観光名所だけでなく、事件や災害、騒動などを収めた写真を題材にすることが当たり前になった。「巌頭之感」の絵はがきは、その草分けといえるかもしれない。
1923年には関東大震災直後の様子を残した絵はがきも多数作られた(筆者撮影)行政が販売停止に乗り出す
草分けと呼ぶにふさわしい反響を得たものの、流通は断続的でもあった。しばらくすると行政が販売停止やネガの回収に乗り出したためだ。やはり後追い自殺の問題が続いており、シンボルともいえる絵はがきの流通を抑える必要があったのだろう。
一方で売る側は絵はがきのストックや複製したネガを残しており、ほとぼりが冷めて販売が再開できる機会をうかがっていた。そうして再び売り出されては目立ち、目立ったら行政にストップがかけられるといったいたちごっこが繰り返された。
それはどうも過ぎ去った出来事ではないらしい。絵はがきは最近まで売られていた。そんな情報を得たので、4月某日に華厳滝に赴いて確認することにした。
東武日光駅から45分ほどバスに揺られて中禅寺温泉で降りると、華厳滝へは徒歩数分で辿り着く。平日の昼前でもバスは満員に近く、日本人よりも明らかに外国人のほうが多かった。温泉街の往来も同じ様子だった。
中禅寺温泉の通りには日光土産の店が軒を連ねていたので、その一軒一軒を回って「巌頭之感」の絵はがきを探すことにする。しかし、いずれの店にも目当てのものは置いていない。店主に在庫を尋ねてもピンとこない様子であしらわれるばかりだった。
唯一、ある老舗店の主人は、「50年くらい前までは売っていたけど、最近はとんと聞かないねぇ」と教えてくれた。いずれにしても店内で目当てのものが見つかる気配はいっさいしない。
「Misao Fujimura's WILL(Farewell Poem)」
その空気が急に変わったのは華厳滝の敷地内に入ったときだ。華厳滝には滝口近くから滝壺近くに100メートル垂直に降りる観光エレベーターがあり、上下に土産物店が数件建っている。
その一軒に入ると、レジから近い目立つ場所に当たり前のように「巌頭之感」が並べられていた。
官製はがきよりも大きい183×140ミリ大の厚紙に、例の写真と華厳滝のモノクロ写真が並べて印刷されている。華厳滝の右上には藤村操のポートレートも添えられていた。
華厳滝で入手した「巌頭之感」(筆者撮影)裏面には詩の解説が赤文字で記されている(筆者撮影)他の店でも同じデザインのものが売られており、価格は共通して税込み100円だった。売り方は店によってさまざまで、他の絵はがきと一緒にただ並べている場合もあれば、外国人観光客向けに「Misao Fujimura's WILL(Farewell Poem)」(藤村操の遺言、訣別の詩)、「You can google it...」(ググってね)など手描きしたポップで飾っている場合もあった。
エレベーターから降りた滝壺近くの観瀑台で営業している店に話を聞くと、「いまもぽつぽつ売れていますよ。若い人にも結構人気があります」という。販売を開始した時期は思い出せないくらい前とのこと。
かつては華厳滝周辺で広く扱っていたが、現在は販路を絞って、細く長く売っているということのようだ。派生商品などはなく、ただ一枚の写真だけを売り続けているという。
なお、エレベーターの降り口から観瀑台に向かうトンネルの中には、華厳滝に投身した人々を慰霊する像が置かれている。1966年9月に作られたものだ。
以前は自殺と結びつく場所ではなかった。観光資源であり、自殺に誘う危険をはらむもの。慰霊の像は、「巌頭之感」が生んだ光と影が60年にわたって消えなかったひとつの証拠といえるだろう。
エレベーターに続く通路にある慰霊の像(筆者撮影)青山霊園にも「巌頭之感」
慰霊の像が捧げられてさらに約60年。2024年現在もオープンにされている「巌頭之感」が実はもうひとつある。東京都の青山霊園にある藤村家の墓地に置かれた記念碑だ。
華厳滝付近の石にあの絶筆を刻んだもので、藤村の叔父で歴史学者の那珂通世が主導して1909年に建てたと伝わる。碑を製造する段階では現物のミズナラはとうに伐採されていたので、絵はがきと同じ写真をベースに彫ったとみるのが自然だろう。いわば現在に残るレプリカのひとつだが、現在流通している写真よりもずっと古い。
青山霊園にある「藤村操君絶命辞」の碑(筆者撮影)社会学者のデイビット・フィリップスが、マスメディアの自殺報道が自殺を誘発する現象に「ウェルテル効果」と名付けたのは1974年。それから数十年かけて日本にも警戒感がじわじわと浸透していった。
いまの世の中は第2第3の「巌頭之感」を生まないだろう。オリジナルの「巌頭之感」も新たなグッズが作られず、販路も細くなっている。時代に許された頃の資産を引き継いでいるに過ぎない状態だ。これからさらに60年後に同じように市井に残っている姿は……なかなか想像しづらい。
「巌頭之感」のレプリカはそうした危うい位置に立っている。けれど公に存在しているなら、腫れ物とせずに堂々と鑑賞してよいと思う。それが許容されるうちに。
※参考文献猪股忠著『追跡 藤村操 日光投瀑死事件』(V2ソリューション)
島原学著『日本写真史(上)(下)』(中公新書)
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