花山天皇の出家後の人生とは?
歴史ドラマにおいて、登場人物の命が尽きるシーンは、物語を盛り上げるうえで欠かせない。しかし、全員の臨終場面を描いたら、放送時間がいくらあっても足りなくなるだろう。
そこでナレーションによって「○○は討ち死にした」といったように、登場人物の死亡が説明されることが、歴史ドラマでは少なくない。
いわゆる「ナレ死」と呼ばれるもので、あっけなく退場させられる登場人物の切なさに、おのずと思いが寄せられる。だが、それでも死が視聴者に知らされるだけマシである。
ストーリー上、もう見せ場がなくなり、気づけばいなくなって、最後まで登場しない……。そんな人物も数多いる。
今回の大河ドラマ「光る君へ」においては、花山天皇がまさにそうなってもおかしくなかった。
花山天皇の生涯でいちばんのハイライトは何といっても、藤原道兼に騙されて出家し、退位に追い込まれる場面だろう。明治時代には、 画家の月岡芳年が「花山寺の月」という浮世絵でその姿を描くなど、後世に語り継がれることとなった。
「花山天皇の出家計画」を立てて、道兼に指示したのは、父の藤原兼家だったとされている。兼家からすれば、花山天皇さえ退位してくれれば、孫で皇太子の懐仁親王を天皇に即位させることができる。
陰謀を実行した結果、兼家の思惑通り、花山天皇は出家して退位。懐仁親王が一条天皇として即位する。外戚となった兼家は摂政となり、権勢をふるい、息子である道隆、道兼、そして道長の地位を引き上げていく。
つまり、ドラマにするならば、花山天皇の物語は退位劇がクライマックスであり、その後はフェイドアウトしてもおかしくはなかった。
しかし、花山天皇は出家して退位したときに、まだ19歳であり、その後も人生は続く。あるときには意外なかたちで、再び注目されることにもなった。出家後の花山天皇について、見てみよう。
絶望のどん底から修行の道へ
「私とともに出家しましょう」
そんな道兼の言葉を信じて、花山天皇は元慶寺(京都市山科区)にて、出家することになった。
花山天皇が出家した元慶寺(写真:金土日曜 / PIXTA)だが、花山天皇が剃髪するやいなや、道兼は態度を急変。「いったん家に帰って、父に出家前の姿を見せて、事情を説明してきます。必ず戻ってきますから」と言って退出してしまった。このときに花山天皇は陰謀に気づき、「私を騙したな」と言って泣いたが、あとの祭りである。
しばらくして、追い打ちをかけるように、花山天皇の同腹の長姉が23歳の若さで亡くなった。花山天皇の姉弟はすべて、この世から去ってしまったことになる。
まさに人生のどん底のなか、心の支えを求めたのだろう。出家した花山院は、寛和2(986)年7月22日、まさに一条天皇の即位式が行われる日に出発して、書写山圓教寺(兵庫県姫路市)へ。性空上人に「結縁」、つまり、仏道に縁を結び、そのもとで研鑽を積んでいる。
その後は、比叡山や熊野などに赴いて、花山院は仏道修行に励んだ。比叡山延暦寺の戒壇院では、「悟りの位に進んだ」とされる儀式「授戒灌頂」を経て法皇となっている。
熊野に行くときには、藤原実資を呼び出して「馬を貸してくれ」と頼んだのだとか。実資は、花山院の要求に応じて馬を献上したと、日記の『小右記』に記している。
そもそも、かつて花山院が出家へと心が傾いたのは、最愛の女御だった忯子を失い、深く失望したことがきっかけだった。そんな心のスキマを利用して、道兼が出家を持ちかけることとなった。
今や法皇となった花山院は、忯子を弔いながら、修行に励んだのだろう。熊野を出発してからは、宝印のある三十三の観音霊場を巡礼する修行を行ったとも言われている。
女好きは相変わらずで事件に巻き込まれる
そんななか、花山院は28歳のときに、とんでもない事件に巻き込まれる。
故・藤原為光の家で、藤原伊周と弟の隆家と遭遇すると、従者同士が乱闘する騒ぎになり、花山院と一緒にいた童子2人が殺害されて、首を持ち去られたというのだ。乱闘の最中には、従者より花山院に矢が射られたともいうから、ただ事ではない。
どうも伊周が自分の好いた女性を花山院にとられたと勘違いし、弟の隆家とともに、法皇を襲撃することになったらしい。このとき、花山院のお目当ては藤原忯子の妹・四の君だった。ところが、伊周は「自分が好きな三の君のもとに花山院が通っている」と勘違いし、弟の隆家に相談。凶行に及ぶことになった。
伊周はこの「長徳の変」と呼ばれる事件をきっかけに失脚。ライバルが勝手に脱落したことで、道長の栄華が決定づけられることになった。
伊周もまたしょうもないことをしたものだが、出家してもなお、女好きの花山院の姿には「楽しそうでよかった」と、ほっとさせられるのは私だけであろうか。
『大鏡』では「風流者」と評されているように、花山院は、優れた和歌を詠み、絵画や建築、工芸、造園にも才を発揮した。
あるときは牛車を入れる車庫に着目。傾斜を設けることで、緊急時に人の手を借りることなく、牛車が「からからからと」自動的に出てくるしくみを考案したこともある。奇行ばかりが注目されがちだが、実は多才な人だった。
花山院は41歳で生涯を閉じた
そんな花山院の人生を、随筆家の白洲正子は『西国巡礼』で次のように表現している。
「たとえどんなに辛い一生でも、偽わりの出家を機縁として、王座を蓮座にかえて一念を完うされた院は、やはり希にみる幸福な人間といえよう」
晩年は菩提寺に隠棲していた花山院。寛弘5(1008)年2月8日、京都の花山院で崩御し、波乱に満ちた41歳の生涯を閉じた。
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
白洲正子『西国巡礼』 (講談社文芸文庫)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)
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