若紫 運命の出会い、運命の密会
無理に連れ出したのは、恋い焦がれる方のゆかりある少女ということです。
幼いながら、面影は宿っていたのでしょう。
その気持ちにほだされて
京に戻った光君はまず宮中に向かい、父帝にここ数日の話をした。光君を見て、本当にひどくやつれてしまったものだと帝は心配になる。聖の験(げん)の力がいかにすぐれているかと光君がくわしく話すと、
「阿闍梨(あじゃり)に任ぜられてしかるべき人物なのだろう。それほど修行の年功がありながら、朝廷で少しも知られていなかったとは……」と帝は尊敬をこめて言う。
ちょうど参上していた左大臣がやってきて、
「お迎えにと存じましたが、お忍びのお出かけですので、どうかと思って遠慮いたしました。私どもの邸(やしき)で一日二日、ゆっくりご休息なさいませ」と言う。「これから私がお供いたしましょう」
光君は気が進まなかったが、その気持ちにほだされて退出することにした。左大臣は自分の車に光君を乗せ、自分は末席に座る。こうして自分のことをだいじに世話してくれる左大臣の誠意を、さすがに心苦しく思うのだった。
左大臣の邸では、光君がやってくるのを心待ちにしてあれこれ用意をし、光君が久しく顔を見せないうちに、ますます玉で飾った高殿よろしく邸を飾り立て、何もかも華麗に整えていた。妻である女君(葵(あおい)の上(うえ))は、いつものように引っ込んだままで、すぐには姿をあらわさない。左大臣に強く勧められて、やっとのことであらわれたものの、まるで絵に描いた物語のお姫さまのように座り、身じろぎもせず、堅苦しいまでに行儀よくしている。光君が心の中の思いをそれとなく口にしたり、山に行っていた話をしてみても、女君は少しも打ち解ける様子がない。気の利いた返事でもしてくれるのならば話し甲斐(がい)もあって、愛情も湧いてこようものを、光君を気詰まりな相手だと思っているかのようによそよそしい。いっしょになってから年月が重なるのにつれて、どんどん気持ちが離れていくようで、光君はさすがにやりきれない気持ちになって、言った。
「たまには人並みの妻らしいところを見てみたいものですね。病でたえがたいほど苦しんでいたのに、いかがですかと問うてもくれないのは、今にはじまったことではないが、やはり恨めしく思いますよ」
「では『問はぬはつらき』という古歌の心があなたもおわかりになって?」と、流し目で光君を見る葵の上のまなざしは、なんとも近づきがたいほどの気品にあふれたうつくしさである。
「若紫」の登場人物系図(△は故人)なんともおもしろくない気持ち
「たまに何か言ってくれるかと思うと、とんでもないことを言いますね。『問はぬはつらき』などという間柄は、れっきとした夫婦である私たちにはあてはまりませんよ。情けないことだ。いつまでたっても取りつく島もない仕打ちだけれど、考えなおしてくれることもあろうかと、いろいろ手をかえてあなたの気持ちを試そうとしているのですが、それでますます私のことが嫌になるのでしょうね。まあ、仕方ない。命さえ長らえていれば、いつかはわかってもらえるでしょう」と言って、光君は寝室に入った。
女君はすぐには寝室に入ってこない。光君は誘いあぐねて、ため息をつき横になった。なんともおもしろくない気持ちなのだろうか、眠そうなふりをして、男と女のことについてあれこれ思いをめぐらせている。
さて、山で見かけたあの少女の成長ぶりを、やはりこの目で見たいという思いを光君は捨てることができない。けれど不釣り合いな年齢だと尼君が言うのももっともであるし、なんとも交渉しづらい。なんとか手立てを打って、気軽にこちらに迎えて、朝も夕もいっしょに暮らしたいものだ……。父君の兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)はじつに優雅で上品なお方だが、はなやかなうつくしさがあるわけではない、なのになぜあの少女は、ご一族のあのお方にあんなに似ているのだろう、兵部卿宮とあのお方が、同じ母宮からお生まれになったからだろうか……。そんなことを考えていると、あのお方との姪(めい)という縁(ゆかり)がなんとも慕わしく、どうにかして是非にでも、と切実な気持ちになる。翌日、手紙を書いて北山に届けた。僧都にも思うところをそれとなく書いたようである。尼君には、
「まったく取り合ってくださらなかったご様子に気が引けて、心に思っておりますことを存分に言い切ることができなかったのを残念に思っております。こうしてお手紙でも申し上げることからしても、私がどれほど真剣かをおわかりいただけましたら、どんなにうれしいでしょう」
と書き、ちいさな結び文を同封した。そこには、
「おもかげは身をも離れず山桜心の限りとめて来(こ)しかど
(山桜のうつくしい面影は体から離れることがありません。心のすべてはそちらに置いてきたのですが)
夜のあいだの風も、山桜を散らしてしまうのではないかと心配でなりません」
と書いた。
『源氏物語 1 』(河出書房新社)書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。筆跡がみごとであるのはいうまでもなく、無造作に包んだ風情(ふぜい)も、年老いた尼君たちの目にはまぶしいばかりにすばらしく見える。ああ困った、なんとお返事差し上げようと尼君は悩む。
「先だってお通りすがりの折のお話は、ちょっとしたお思いつきのように存じましたが、わざわざお手紙をいただきましては、お返事の申し上げようもございません。まだお習字の『難波津(なにわづ)』の歌すら、ちゃんと続けては書けないのですから、お話になりません。それにしても
嵐吹く尾(を)の上(へ)の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ
(激しい山嵐が吹いていずれは散ってしまう峰の桜の、散らないあいだだけお心を留められたとは、ほんの気まぐれではございませんでしょうか)
お手紙を拝見し、いっそう心配でなりません」
と返事を書いた。僧都からの返事も似たようなものだったので、光君は残念でならず、二、三日たってから惟光(これみつ)を使いに送った。その際、
「少納言の乳母(めのと)という人がいるはずだから、その人を訪ねて、くわしく相談せよ」と言い含めた。
もっともらしくいろいろ話すが
なんとまあ、抜け目のないお心であることよ。はっきり見たわけではないけれど、まだほんの子どもだったじゃないかと、ちらりと垣間見た時のことを思い出し、さすがは光君……と、惟光は感心すらしてしまう。
光君からわざわざ手紙を送ってもらったので、僧都も恐縮して返事をした。惟光は少納言の乳母にも面会を申し入れて会った。源氏の君の気持ちや言っていた言葉、日頃の様子までくわしく話して聞かせた。口の達者な惟光は、もっともらしくいろいろ話すが、姫君はまだどうともできないお年なのに、源氏の君はいったいどういうおつもりなのだろうと、僧都も尼君も気味悪くすら思うのだった。光君は心をこめて書いた手紙に、ふたたび結び文を入れている。
「その一字一字たどたどしくお書きになったお手紙がやはり拝見したいのです」
あさか山浅くも人を思はぬになど山の井(ゐ)のかけ離(はな)るらむ
(あなたを浅くも思っておりませんのに、どうして相手にならず、かけ離れてしまわれるのでしょう)
尼君からの返事は、
汲(く)みそめてくやしと聞きし山の井(ゐ)の浅きながらや影を見るべき
(汲みそめてくやし──うっかり汲んでしまって後悔したと古歌にも詠われた山の井のように、あなたのお心のその浅さでは、どうして姫君を差し上げることができましょう)
というもので、惟光はこれをそのまま光君に伝えた。
「尼君の御病気が多少とも快方に向かわれましたら、もうしばらくのあいだここで過ごして、京の邸(やしき)にお帰りになってからご挨拶申し上げましょう」という少納言の返事を光君はもどかしく聞いた。
次の話を読む:5月19日14時配信予定
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