「幻の飛行場」です。終戦直前、長野市長沼地区に陸軍の飛行場計画があったことが地元有志の調査でわかってきました。本土決戦の準備の一つだったとみられています。
長沼地区史を学ぶ会・西澤清文会長:
「ここよりも北側が予定地で…」
長野市長沼地区のリンゴ畑。79年前、ここに飛行場が建設されつつあったと言います。
長沼地区史を学ぶ会・西澤清文会長:
「この辺り一帯、舗装が終わって飛行場になっていたかも。あそこに見えます堤防とこの間ですね」
近くの神社は物資の搬送に使われたとみられるトロッコのレールも残っていました。
長野市には、1937年に大豆地区に完成し、戦後も使われた「長野飛行場」がありました。
さらに終戦間際には「松代大本営」や安茂里の「海軍部壕」の整備も進められ、善光寺平でいわゆる本土決戦の準備が進んでいました。
長沼地区の飛行場もその一つだったとみられています。
結局、完成せず、畑に戻ったため忘れられていきましたが、2023年発足した「長沼地区史を学ぶ会」の活動で少しずつ、当時の様子がわかってきました。
15日の学習会では父親の会社が滑走路の造成を請け負ったという男性が証言しました。
長野市大町在住・山口和友さん(91):
「(飛行場の整地のため)私もリンゴの木の伐採はお手伝いさせられて、そういう面では実際によく感じていた。戦争一色で、他のことはもう何も考えられない時代」
「学ぶ会」は、滑走路の整地はほぼ終わり、コンクリートを流し込む前に終戦を迎えたのではとみています。
長沼地区史を学ぶ会・西澤清文会長:
「ここが南の端でこういうふうにこの範囲に確定はできないがその範囲に造られたよう」
安茂里の海軍部壕などを研究する「昭和の安茂里を語り継ぐ会」の土屋光男さんは善光寺平一帯の「要塞化」が進んでいたと話します。
昭和の安茂里を語り継ぐ会・土屋光男事務局長:
「私たちの今までの捉え方は長野飛行場の第2飛行場、予備飛行場と思っていたが、長野飛行場よりも長沼の方が、大規模な本土決戦に備えた飛行場になっていたのでは」
終戦の2日前、8月13日にあった長野空襲。長野駅や大豆島の飛行場が標的となりました。長沼の飛行場も完成していれば攻撃の対象になっていたかもしれません。
「学ぶ会」は引き続き証言や資料を集めて実態に迫り、後世に語り継ぎたい考えです。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。