「日本には悲惨があふれかえっている」と井手英策・慶大教授が語る理由は?(写真:マハロ/PIXTA)財政社会学者の井手英策さんは、ラ・サール高校→東京大学→東大大学院→慶應義塾大学教授と、絵に描いたようなエリート街道を進んできました。が、その歩みは決して順風満帆だったわけではありません。貧しい母子家庭に生まれ、母と叔母に育てられた井手さん。勉強机は母が経営するスナックのカウンターでした。井手さんを大学、大学院に行かせるために母と叔母は大きな借金を抱え、その返済をめぐって井手さんは反社会的勢力に連れ去られたこともあります。それらの経験が、井手さんが提唱し、政治の世界で話題になっている「ベーシックサービス」の原点となっています。勤勉に働き、倹約、貯蓄を行うことで将来不安に備えるという「自己責任」論がはびこる日本。ただ、「自己責任で生きていくための前提条件である経済成長、所得の増大が困難になり、自己責任の美徳が社会に深刻な分断を生み出し、生きづらい社会を生み出している」と井手さんは指摘します。「引き裂かれた社会」を変えていくために大事な視点を、井手さんが日常での気づき、実体験をまじえながらつづる連載「Lens―何かにモヤモヤしている人たちへ―」。第2回のテーマは「愛する人の死」です。

介護疲れの殺人や心中は8日に1件

テレビやネットでニュースを見ていると、老老介護に疲れてしまい、配偶者や親と無理心中を図った、という事件をしばしば目にする。

ある統計によると、介護疲れの殺人や心中は8日に1件も起きているそうだ。もしそうなら、私たちは悲惨があふれかえる国を生きていることになる。

あふれかえる悲惨――そうなのだ。介護をめぐるさまざまな問題は、私にもまったく他人事ではなかった。母と叔母は認知症だった。特に、母の病状は進行が早く、晩年は、聞こえない、話せない、歩けない、の三重苦が重なっていた。

不安と背中合わせではあったが、姉夫婦が2人と同居してくれていたのが救いだった。家族で帰省すると、そのお礼に、ではないが、必ずみんなで食事に出かけることにしていた。

母の聞こえの悪さは急速に進んでいた。私は、大きな声で何度も母に話しかけてみたが、まったく反応してくれない。それどころか、途中で食事をやめ、私を通り越して、部屋の遠くをじっと眺めはじめた。

30分くらい経ったのではないか。何を思ったのか、母が急に「ニヤッ」と笑いはじめた。私はゾッとした。

ひどいやつだと思わないで聞いてほしい。当時、うちには3人の子どもがおり、収入がほとんどなかった母と叔母への仕送りも必要だった。

「2人はいつまで生きるのだろう」

慶應の教授といえば、世間的には羽振りのいい暮らしを想像されるだろう。だが、うちは片稼ぎ。現実には、回転寿司で子どもが何を頼むのかハラハラするし、服だって安いファストファッションに頼っている。

そんな生活にさらに施設費用が加わるのか……「ニヤッ」と笑った母を見た瞬間、「2人はいつまで生きるのだろう」と思った。同時に、姉夫婦は、この笑顔を毎日のように見ている。私は自分の弱さ、不誠実さを知り、悶絶した。

だが、この母への冷たい目線は、かつて自分自身に突き刺さったトゲでもあった。

今から13年前の2011年4月、東日本大震災が起きた翌月に、38歳だった私は脳内出血で死にかけた。過労で倒れ、床に強く頭を打ちつけたのだ。

生きるか、死ぬか、後遺症が残るか、残らないかの瀬戸際に立たされた私は、ベッドで布団をかぶって一晩中泣いていた。

死ぬのが怖くて泣いたのではない。まるで反対だ。頼むから殺してほしい、そう思って泣いたのだ。

死を願うなんて、みなさんには想像できないかもしれない。でも、もし、このまま運よく死ねれば、多額の保険金がおりる。教育費も生活費も心配なくなるし、住宅ローンもチャラになる。仕送りも何とか続けられる。家族みんなが安心して生きていける。

反対に、運悪く生き延びて、元の体に戻れなかったとすればどうだろう。保険金もおりず、仕事もできず、給料ももらえず、住宅ローンは払えず、教育も、暮らしも、仕送りも、全部あきらめるしかなくなるはずだ。

みなさんは、以上の私の経験をどう聞かれただろう。

自分が生き延びたら、愛する人が生き延びたら、「よかったね、幸せだね」と言えるのが当たり前の世の中ではないだろうか。

ところが、命懸けで私を育ててくれた母や叔母が長生きするとしんどくなる。子どもたちのために自分なんて死んだほうがマシだ、と考える。こんな社会はまともじゃない。絶対に許される社会じゃない。

私の話が悲しいとすれば、親の不幸を願ったり、自分の死を願ったりする「非人間的な感情」に理由がある。そして、私のなかの非人間性は、おそらく多くの人たちにとっても他人事ではない。だから私は、「この国には悲惨があふれかえっている」と言う。

あまりにも重くのしかかる「生活コスト」

人間性を喪失する理由はどこにあるのか。そう、それは、医療、介護、教育といった「生活コスト」があまりにも私たちの肩に重くのしかかってくるからだ。

ご存じだろうか。いま、先進国の社会保障に大変動が起きている。かつて、最も手厚い福祉で知られたのはスウェーデンだった。ところが、同国では、社会保障が抑制され、反対に社会保障の充実を図る「自己責任大国アメリカ」とあまり変わらない水準にまできている。

出所:厚生労働省ホームページ

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反対に高福祉高負担の代表国はフランスだ。同国では、年中、政府を相手に国民が暴動を起こしている。彼らは、国に対して抗議の声をあげ、同時に、税を納め、暮らしを支え合い、連帯を追い求める。政府はそんな国民を恐れている。

いまの日本は、主要先進国の中で最も社会保障が貧弱な国の1つになりかけている。国は、政治家は、国民を恐れていない。事態は改善されず、安心して生きていけない社会の歪みが、愛する人の死を願う社会へと私たちを誘う。本当にこのままでいいのだろうか。

いまのわが家は、子どもの数がさらに1人増え、4人になった。だけど、以前のような不安はない。なぜなら……母と叔母が火事で死んだからだ。私は、2人の命と引き換えに、生活の安定を得ることになった。

最後まで私の幸福を願っていた母と叔母

2人が亡くなってすぐ、みんなで食事に行った、あの日の風景を夢に見た。

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母はやはり私の声に応じようとはしなかった。でも、丁寧に食事を済ませたあと、私の胸の向こう、私の心のずっとずっと向こうのほうを眺めながら、「ニコッ」と微笑んだ。それは、邪気のない、天使のような、かわいらしい笑顔だった。

「なんね、お母さん、子どものごたる顔(子どものような顔)で笑って。かわいかねー」

なぜあのとき、そう言ってあげられなかったのだろう。母と叔母は、最後の最後まで、私の幸福を願い、そして迷惑をかけまいと死んでいった。目が覚めたとき、私の頬は涙で濡れていた。

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