群馬県上野村の山中に墜落し、単独機としては世界最大の520人の犠牲者を出した1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故。標高1500メートルを超える現場の「御巣鷹の尾根」で取材を続けていた私の目に、バレーボールが留まったのは18日の昼下がりだった。
残骸が散乱し、土ぼこりが舞い上がる尾根に手向けられたボールにはこんな言葉が記してあった。<立派な子供を生みます。天国から見守ってください>
精密機械メーカーに勤務する小澤孝之さん(当時29歳)は、東京への出張の帰りに同機に搭乗。食卓にポトフと天ぷらを並べて、大阪の自宅で待つ妻、紀美さん(同)のおなかには小さないのちが息づいていた。
地元のバレーボールチームの選手とマネジャーとして結ばれてから1年10カ月後の悲報だった。夫は心音をさぐるように妻のおなかに耳を当てて、我が子との対面を心待ちにしていた。
現地に向かおうとする紀美さんを、8歳上の兄が制止し、代わりに妹の思いを書いたボールを現場に運んだ。5日後、あごの一部で身元が確認された。
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一周忌を前に、全国各地に点在するご遺族を訪ね歩いた私が、最初に向かったのが小澤家だった。せみ時雨がシャワーのように降り注ぐ猛暑の初夏だった。
留守宅の前に2時間ほど立っていると、生後半年の秀明さんを抱いた紀美さんが帰宅した。「この子がいなければ、私は夫の後を追っていた」。あの日の彼女の言葉を記憶する。
三回忌を迎える87年の春は、秀明さんを背負った紀美さんに同行して御巣鷹の尾根に登った。新婚旅行先のフィリピンに咲いていたピンクのブバリアを墓標に供え、<この山に眠るとも 心の中に生き続けん>と書いた墓標を建立した。
「夫の所に行きたい一心で、無我夢中でした」。初めての山は、染み入るような新緑のもえぎもささやくような渓流の音色も耳目に残ることはなかった。
母子で手をつないで登った5年後の命日は報道陣に囲まれ、4歳の幼子は「パパがいなくて悲しいね」とマイクを突きつけられた。「僕って悲しい子なの」。その夜、秀明さんは母に問いかけ、以来久しく取材を避けるように、8月を避けて春の山に通った。
山肌がむき出しになっていた尾根に芽吹いた木々と競うように、少年は背丈を伸ばしていった。山道で追いかけっこをしたり、山小屋で山菜の天ぷらに舌鼓を打ったりする母子の姿があった。
紀美さんは折を見ては、亡夫との思い出話や事故のことを秀明さんに伝えた。怒りや悲しみの感情を排しながら、成長に合わせて分かりやすい言葉で語り掛けた。「先入観にとらわれず、自分で考えられる大人になってほしい」との思いからだ。
テレビや新聞で毎夏報じられる上野村の灯籠(とうろう)流しや慰霊登山を目にした秀明さんが「僕も行く」と口にしたのは高校生になってからだ。母の背丈を超えた少年を、遺族たちは涙と笑みを浮かべて歓待した。
関西学院大2回生の夏には墓標の前で、缶ビールを手に「一足早い成人式」を一緒に祝った。そして、秀明さんが大手メーカーに就職した年の夏は、紀美さんが一人で慰霊登山にやってきた。「会社の先輩が家族旅行に出かけるので、僕は会社で留守番します」。秀明さんからの伝言を、母は上野村に集う仲間たちに伝えた。
「結婚したよ」。墓標に朗報を届けたのは、2018年の慰霊登山だ。傍らには、新婦の裕美さんの姿があった。「うれしゅうて、涙が出るわ」。3人の娘を亡くした80代の夫婦は拝むように手を合わせ、9歳の息子を失った70代の母親は「御巣鷹の家族がまた一人増えたわね」と新婦の手を握った。
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そして今春、尾根に続くつづら折りの登山道を登る小澤家を、満開のヤマザクラとホトトギスの歌声が出迎えた。秀明さんの胸で2歳2カ月のお嬢さんが笑みを浮かべ、傍らで「ママ」になった裕美さんと、「バーバ」になった紀美さんが目を細めていた。
「ジージはこの山にいるんだよ」。秀明さんはお嬢さんに穏やかな口調で語り掛け、紀美さんは「みんな元気で暮らしていますよ」と墓標に報告した。
事故から39年の春。新緑のグラデーションに彩られた尾根の上には、雲一つない青空が広がっていた。
【客員編集委員・萩尾信也】
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