ほかの大勢とは比べものにならないくらいかわいらしい女童に出会い…(写真:Nori/PIXTA)輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第5帖「若紫(わかむらさき)」を全10回でお送りする。体調のすぐれない光源氏が山奥の療養先で出会ったのは、思い慕う藤壺女御によく似た一人の少女だった。「自分の手元に置き、親しくともに暮らしたい。思いのままに教育して成長を見守りたい」。光君はそんな願望を募らせていき……。※「著者フォロー」をすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

 

若紫 運命の出会い、運命の密会

無理に連れ出したのは、恋い焦がれる方のゆかりある少女ということです。
 幼いながら、面影は宿っていたのでしょう。

 

内密で北山へ

光君(ひかるきみ)がわらわ病(やみ)を患ってしまった。あれこれと手を尽くしてまじないや加持(かじ)をさせたものの、いっこうに効き目がない。何度も発作が起きるので、ある人が、

「北山の何々寺というところに、すぐれた修行者がおります」と言う。「去年の夏も病が世間に流行し、まじないが効かず人々が手を焼いておりました時も、即座になおした例がたくさんございました。こじらせてしまいますとたいへんですから、早くお試しなさったほうがよろしいでしょう」

それを聞いてその聖(ひじり)を呼び寄せるために使者を遣わした。ところが、

「年老いて腰も曲がってしまい、岩屋から出ることもままなりません」という返答である。

「仕方がない、内密で出かけることにしよう」と光君は言い、親しく仕えている五人ばかりのお供を連れて、まだ夜の明けきらないうちに出発した。

その寺は山深く分け入ったところにあった。三月も終わろうという時期で、京の花はみなもう盛りを過ぎている。けれども山の桜はまだ満開で、分け入っていくにつれて広がる霞(かすみ)がかった光景を、光君は興味深く眺めた。こうした遠出の外出も今までしたことのない窮屈な身分なので、珍しく思えるのだった。寺の様子もじつに趣深いものだった。峰が高く、岩に囲まれた奥深いところに、その聖はこもっていた。光君は素性を明かすこともなく、またたいそう地味な身なりをしてはいるが、そのたたずまいから高貴な人だとはっきりわかったらしく、聖は驚きあわてている。

「これは畏れ多いことです。先日お召しのあったお方でしょうか。今は現世の俗事と縁を切っておりますので、加持祈禱(かじきとう)の修行もすっかり忘れておりますのに、なぜこのようにわざわざお越しくださいましたのか」と聖は笑みをたたえて光君の姿を眺める。いかにも尊い感じのする高徳の僧である。しかるべき護符などを作っては光君にのませ、加持祈禱をはじめる。そうしているうち日も高く上った。

「若紫」の登場人物系図(△は故人)

幾重にも折れ曲がった山道に

岩屋から外に出てあたりを見やると、高いところなので、あちこちにいくつもある僧坊が見下ろせる。幾重にも折れ曲がった山道に、ほかの僧坊と同じく小柴垣(こしばがき)ではあるが、きちんと周囲にめぐらせて、家屋も渡殿(わたどの)もこぎれいに立て並べ、木立もまた風情のある庵室(あんしつ)が一軒あるのを見つけ、

「だれが住んでいるのだろう」と光君は訊(き)く。お供のひとりが、

「あの何々の僧都(そうず)が、この二年のあいだこもっているところだそうでございます」と答える。

「立派な人の住んでいるところなのだね。みっともないほどみすぼらしい恰好(かっこう)で来てしまったな。私のことが耳に入ったら困ってしまう」

こぎれいな女童(めのわらわ)たちが大勢出てきて、仏に水を供えたり、花を折ったりしているのもはっきりと見える。

「あんなに女童がいるということは、あそこには女の人が住んでいるのか」

「僧都が女を囲っているわけはないからなあ」

「いったいどういう人なんだろう」

と、お供の者たちは口々に言う。下りていってのぞいて見る者もいる。

「きれいな娘たちと、若い女房、それに女童たちがいる」と言う。

仏前のお勤めをしているうちに日も高くなっていくので、病がぶり返さないかと光君は不安になるが、

「何か気分をお紛らわしになって、お気になさらぬのがようございます」

とお供の者に言われ、後ろの山々に向かい、京の方角を見下ろした。ずっと遠くまで霞がかっていて、木々の梢(こずえ)がどことなく一帯に煙って見える様子は、まるで絵に描いたようだ。

明石の浦の父と娘の話

「こういうすばらしいところに住む人は、満足して思い残すこともないだろうね」と光君が言うと、

「このような景色はたいしたものではありません。よその国にあります海や山の光景をご覧に入れましたならば、どんなにか御絵も上達なさることでしょう」「富士の山だとか、何々の岳とか」とお供の者たちが言う。また、西のほうの風情(ふぜい)ある浦々や、海辺の景色について話し出す者もいて、なんとか君の気を紛らわせようと努める。

「近いところですと、播磨(はりま)の明石(あかし)の浦(うら)、これがやはり格別でございます。どこといって深い趣があるわけではありませんが、ただ海を見渡したその光景が、不思議とほかの場所とは違って、広々としているのです。その国の前(さき)の国守(くにのかみ)で、近ごろ出家した者が娘をたいせつに育てております家は、たいしたものです。大臣の子孫で、出世もできたはずの人なのですが、たいそうな変わり者で、宮廷勤めを嫌って、近衛中将(このえのちゅうじょう)という役職も捨てて、みずから願い出て国守となったわけですが、その国の人々にも少々馬鹿にされたりして、『どんな面目でふたたび都に帰ることができようか』と言って出家してしまったのです。多少とも奥まった山中に隠棲(いんせい)することもせず、人の多い海岸で暮らしておりますのは妙なことですが、なるほど考えてみますと、播磨の国には出家した人の隠棲にふさわしいところは方々にありますが、ひとけもないものさびしい山奥など、若い妻子が心細く思うに決まっておりますし、それに、自分の気晴らしのためもあるのでしょうね。先頃、播磨国に参りましたついでに、様子を見ようと立ち寄ってみましたら、京でこそ失意の者のようでしたが、今はその辺一帯の土地を占有して、邸宅をかまえておりました。なんと申しましても国守の時の権勢でそのようにしたわけですから、余生を充分裕福に過ごせる用意ができているのです。極楽往生のためのお勤めもじつによく励んでおりますから、かえって出家して人柄の格が上がった人物ですね」とお供の者が話すと、

「ところで、その娘というのは」と、光君は訊く。

「容貌もたしなみも、相当のもののようでございます。代々の国守が、格別の心遣いをして求婚しているようですが、いっこうに承知しません。『この私がこうして虚(むな)しく落ちぶれているだけでも無念なのだ。このたったひとりの娘の将来については私に特別な考えがある。万が一私に先立たれて、この志がかなえられず、私の思い決めている運と食い違うようなことがあれば、海に身を投げてしまえ』と父親が常に遺言をしているのだそうですよ」

と話すのを、君はおもしろく聞いた。

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「海の龍王のお妃(きさき)にふさわしい秘蔵娘というわけか。高望みもつらいところだ」

と、お供の者たちは言い合って笑う。

この明石の話をしたのは、播磨守(はりまのかみ)の子で、今年六位の蔵人(くろうど)から五位に叙せられた良清(よしきよ)という男である。お供の者たちは、

「実際、好き者のあなたのことだ、その入道の遺言を反故(ほご)にしてやろうという魂胆なんだろう」

「それで入道の家のまわりをうろうろしていたのか」と、口々に良清をからかう。

「いや、そうはいっても田舎くさい娘だろうよ。子どもの頃から明石なんて田舎で育って、頭の古い親の言いつけを守っているだけなんてね」

「母親はいい家柄の出らしいよ。きれいな若い女房や、女童たちを、京の身分ある家々からつてを頼ってさがし集めてきて、ぜいたくな育て方をしているそうだ」

「風情のない娘に育ってしまったら、そんなふうに田舎に置いて高望みをしているわけにもいかないからね」

などと口々に話している。

旅寝の経験がない光君は興味を引かれ

「けれどどうして明石の入道は、海の底までなんて深く思い詰めているのだろう。はた目にもうっとうしい話だね」と言う光君は、並々ならぬ関心を抱いたようである。

並外れて風変わりなことにご興味をお持ちになる性分だから、こんな話にも興味を覚えてしまわれるのだろう、とお供の者たちはそれぞれこっそりと思うのだった。

「もう日も暮れてきましたが、ご発作もお起こりにならなくなったようです。さっそくお帰りなさいませ」

とお供の者が言うが、聖が止める。

「物(もの)の怪(け)も憑(つ)いているご様子でございましたから、今晩はやはり静かに加持をなさいまして、明日お帰りになるのがよろしいかと思います」

それももっともなことだと一同は言い、このような旅寝の経験がない光君は興味を引かれ、「それでは明け方に帰るとしよう」と言った。

次の話を読む:4月21日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

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