異次元緩和の解体と失言の落とし穴

植田は2023年4月、黒田東彦の後を襲って第32代総裁となった。首相の岸田文雄から託されたのは、賃金と物価の好循環を築き、10年続いた「異次元緩和」を混乱なく出口に導くことである。

前任の黒田は、「デフレを解消し、景気を底上げし、雇用を増やした」と自画自賛したが、後任の植田にはその後始末という難事業が回ってきた。長短金利を同時操作するイールドカーブ・コントロール(YCC)、3層構造のマイナス金利政策など複雑に入り組んだ政策体系を解きほぐし、大量に買い込んだ国債や上場投資信託(ETF)を段階的に処分することである。しかも、市場に混乱を与えないという条件付きで。

以来、植田はYCCを2回微修正し、今年3月にはYCCとマイナス金利の同時解除にこぎ着けた。この間、市場が混乱しなかったのは、米国の景気が予想以上に強かったことと、国内で賃上げが実現し、株価の上昇が続くという幸運に恵まれたためだが、いずれにせよ1年足らずで異次元緩和を解体した植田の評価はうなぎ登りとなる。「普通の金融政策」に戻した植田は、すこぶる上機嫌だったという。

だが、好事魔多しとはよく言ったもので、4月の金融政策決定会合後に思わぬ「落とし穴」が待っていた。誰一人予想しなかった記者会見での “失言” である。

会見で植田は、記者から円安・ドル高について「基調的な物価上昇率への影響は、無視できる範囲だったという認識か」と問われ、不用意にも「はい」と答えてしまう。これを市場は円安容認と受け止め、円相場は一気に下落した。日銀幹部は「まさか『はい』の一言で終わるとは思わなかった」と驚いたが、後の祭りだった。 

円安対応重視へ急旋回

「日銀発の円安」に慌てたのは財務省と首相官邸である。当時財務官の神田真人は、これ以上円安を放置すべきでないと首相官邸に進言し、34年ぶりに1ドル=160円をつけた4月末、史上最大規模の円買い・ドル売り介入に乗り出した。そして大型連休明けの5月7日、今度は岸田が植田を首相官邸に呼び出し、“失言”をたしなめたうえで、円安への警戒を明確にするように求めた、と政府高官は明かす。

会談終了後、植田は記者団に「最近の円安については、日銀の金融政策運営上、十分注視していくことを確認させていただいた」と話し、ここから為替重視の政策運営へとかじを切った。それまで毎月6兆円だった長期国債の買い入れ額を500億円減額したのは、この6日後のことである。わずかではあるが長期金利に上昇圧力をかけ、円安の流れをけん制しようとしたのだ。


記者団の取材に応じる日本銀行の植田和男総裁=2024年5月7日、首相官邸(時事)

実はこのころ、円安がもたらす物価高をいかに抑制するかが岸田政権の重要課題となりつつあった。4月末の衆院補欠選挙で自民党が不戦敗を含めて「全敗」したのも、政治とカネの問題だけでなく、インフレに対する国民の不満が広がっていたからだ、と官邸は感じていた。植田を官邸に呼び出したのも、その危機感の表れだった、と政府高官は言う。

だが、買い入れ国債を多少減らした程度で円安が収まるはずもなく、6月に入ると再び160円台を突破し、政権の危機感は高まっていく。財務官の神田は大規模な為替介入と並行して、国債の思い切った減額を要求した。日銀審議委員の間でも円安による物価の上振れを懸念する声が強まり、日銀は6月の政策決定会合で本格的な国債の減額に乗り出す方針を決める。ただ、市場にショックを与えぬよう、具体策の決定は7月会合に先送りした。あくまでも慎重に「正常化」を進めようというスタンスだったが、これがまた円安を加速させた。

利上げは政治日程への配慮?

学者出身の植田はもともと、主流派経済学の理論にかなった「普通の金融政策」を志向していた。なかでもインフレ率や国内総生産(GDP)ギャップ(現実のGDPと潜在的GDPの差)などを基に適切な政策金利を算出する「テイラー・ルール」を重視し、これによりはじき出された「適正値」を参照しつつ、緩和の度合いが適切かどうかを判断していた。

実際、植田がまだ審議委員だった2000年8月、速水優総裁(当時)が主導したゼロ金利解除の提案に敢然と反対したのも、「テイラー・ルールに照らして解除は早すぎる」と考えたからだった。当時はゼロ金利解除後に米国のITバブルが崩壊し、国内景気も失速したため、結果的に植田の“慧眼(けいがん)”が証明された。

ところが総裁になって足元を見ると、テイラー・ルールから大きくかけ離れた異常な低金利状態が続いている。「円安による物価の上振れリスクも勘案し、総裁は緩和度合いの調整が理論的にも正しいと考えていたようだ」と関係者は明かす。

一方、植田を支える日銀スタッフは、秋以降の政治経済情勢が気になっていた。一つは米連邦準備制度理事会(FRB)の利下げが9月にも見込まれること、もう一つは自民党総裁選挙が9月中にあり、その結果いかんでは衆議院の解散・総選挙があり得ることだ。

米国の利下げと日本の利上げがぶつかった場合のインパクトは予測し難く、市場を混乱させる可能性がある。また、「政治の季節」が近づくと金融政策は動かしにくくなる。政治的な意図を勘ぐられる恐れがあるからだ。このためスタッフたちは、政策変更するなら早く動いた方が賢明だと結論づけ、総裁に進言したとみられる。

幸い、総裁も多くの審議委員も早期利上げに前向きで、7月の審議が荒れる可能性は小さい。市場では7月の利上げは見送られるとの予想が支配的だったが、コールレートを0.15%引き上げる程度であれば大したショックはないだろう、とスタッフは読んだ。ただ、6月から7月にかけて日銀からの能動的な情報発信はなく、これが後に致命傷となる。

7月31日の政策決定会合で、日銀はコールレートの誘導目標を引き上げるとともに、今後1年半かけて国債の購入額を半減させると決めた。植田は「2%を超えるインフレが長く続いており、さらに上に行くリスクもある」と述べ、「経済・物価の情勢が見通しに沿って動いていけば、引き続き金利を上げていく」と明言した。あくまでもテイラー・ルールに沿って「普通の金融政策」を行うと説明したつもりだった。

だが、この半日後、連邦公開市場委員会(FOMC)を終えたパウエルFRB議長が「9月利下げ」を強く示唆し、そこからさらに半日経った8月2日の東京市場で、株価の急落が始まった。米国経済の先行き不安と日米の金利差縮小による円安・ドル高の急激な巻き戻しが原因とされるが、年初から日本の株価上昇を支えてきた海外投資家に「何の予告もないサプライズ利上げ」と受け止められたことがろうばい売りを誘ったことは間違いない。 


史上最大の下げ幅となる4451円28銭安で終了した日経平均株価の終値を示すモニター=8月5日午後、東京都中央区(時事)

植田総裁とデジャヴュ

筆者は2023年1月11日のnippon.comで「正常化とは、換言すれば金融経済の地中に埋められた『大量の不発弾』から一本ずつ信管を抜いていくようなものだ。その抜き方やタイミングを誤れば、大惨事につながりかねない」と書いた(「ポスト黒田」を待ち受ける過酷な運命)。今回のクラッシュは、まさに信管を抜くタイミングと市場とのコミュニケーションにおけるミスがもたらした惨事だった。

日経平均株価は7月11日に4万2426円の最高値をつけた後、すでに下落傾向に入っていたが、日銀の「針の一刺し」により8月最初の3日間でさらに8000円下げた。慌てた副総裁の内田眞一は、すぐさま講演で「市場が不安定な状況で利上げすることはない」と追加利上げにしばらく“封印”すると約束し、懸命に市場をなだめた。

直接の原因はともかく、利上げ直後に株価が暴落したことで、植田は苦しい立場に立たされた。振り返れば、四半世紀前にもマイナス金利の解除後にITバブルが崩壊し、判断ミスを責められた日銀は量的緩和に追い込まれた。だが、1987年のブラックマンデーでは、株価暴落で金融引き締めを躊躇(ちゅうちょ)したことがバブルを膨らませる結果となった。この先、どう転ぶかは誰も予想できないが、植田にとってはどちらも見たくない「デジャヴュ」に違いない。
日銀は金融正常化の最初の一歩でつまずいた。

バナー写真 : 7月31日金融政策決定会合後の記者会見 植田和男日銀総裁(ロイター)

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