平和な島々の破壊的な過去

フィリピンのミンダナオ島から真東に約900キロ。第2次世界大戦で熾烈(しれつ)な戦闘の舞台となったパラオ共和国の島々がある。80年前の1944年、空と海からの攻撃で町のインフラが破壊され、船が沈み、民間人が殺害されるシーンを、この島々の人たちは目の当たりにした。

特に列島の南に位置するペリリュー島では、旧日本軍が米軍の侵攻に長期間あらがったため、島全体が壊滅的な打撃を受けた。この島に住む人は、日本と日本人に対してある程度の恨みを抱いていてもおかしくないだろう。

しかし、パラオのスランゲル・ウィップス大統領に、日本への恨みの存在を問うと、首を強く横に振った。戦争による破壊にもかかわらず、現在の日本とパラオの関係は友好で、過去の傷跡に大きく影響されていないと言う。


パラオ共和国、旧首都コロール市のオフィスでのスランゲル・ウィップス大統領(撮影:ジュリアン・ライオール)

「私たちは日本に侵略されたのではなく、日本の委任統治領の一部だったのです」とウィップス大統領は語った。

「祖先の約20%は日本人で、パラオと日本には多くの共通点があります。私たちの辞書には、日本語由来の単語が1000以上もあるのです」。 個人的なお気に入りの言葉を聞かれたウィップス大統領は、迷わず「トクベツ」、つまり 「特別 」を挙げた。


日本はパラオへの援助を惜しまない。コロール市の道路脇には、首都の道路プロジェクトの完成を記念した標識がある(撮影:ジュリアン・ライオール)

パラオは日本が縄文時代中期だった4000~5000年前ごろ、フィリピンもしくはインドネシアからの航海者が定住したとされ、1522年にスペインの探検家によって初めて記録に残された。スペインの探検隊が足を踏み入れたのは1710年11月のことだった。

1885年まではスペインの支配下。その後ドイツに売却された。第1次世界大戦でドイツが敗戦すると、当時の国際連盟の植民地統治監督制度により1920年に日本の委任統治領に割り当てられた。

西太平洋に今も残る日本の香り

戦前、日本企業は乾燥ココナツや鉱山のリン鉱石、魚などをパラオで産出していた。最大の都市コロール市はかつて 「リトル東京 」と呼ばれ、1万7000人の沖縄県出身者を含む3万人の日本人が住んでいた。

パラオ国立博物館には、セピア色の日本統治領時代の写真が展示されている。そこには、広いメインストリートに木々が立ち並び、その両側には日本的なデザインの木造建築が立ち並ぶ様子が写されている。レストランや衣料品店、さらに立派なデパートと並んで自転車店なども点在していた。当時の日本政府の本部ビル(旧南洋庁パラオ支庁)は大通りの南端にあった。現在も残る建物は補修中だが、裁判所になっている。

1981年に自治政府が発足したパラオ。ハルオ・レメリク初代大統領、1992年から8年間大統領を務めたクニヲ・ナカムラ大統領は日系人だ。島のあちこちにある店や会社には、今でも日本人の姓が数多く見られる。

コロール市にあるパラオ政府観光局で働く28歳のクロエ・ヤノさんの祖父母は日本人。「両文化には多くの類似点がある」と言う。「私の小さなころから、(日本は)パラオの社会に大きな影響をもたらしてきました。人種や民族に関係なく他人を尊重したり、もてなしたり、環境を大切にしたりする点などです。パラオの人々は日本の人々のように謙虚で、勤勉で、家族の絆が強いのです。日本語由来の言葉を耳にしない日はありません。今でもbeerを 『ビール』と言います」

ヤノさんは、パラオが日本人旅行者の人気スポットとなった理由の多くは、良好な2国間関係や世界有数のダイビングスポットがあるからだと言う。 コロール市では、ダイビングツアーや遠洋漁業、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録されているロックアイランドやペリリュー島へのツアーなどを行っている。

「新型コロナの感染拡大前は、日本人は常に外国人旅行者のトップ3に入っていましたが、残念ながら、今は私たちが期待していたようには旅行者の数は回復していません」と彼女は言う。ドルに対する円安と直行便不足が大きな障壁になっていると言う。


ダイバーに人気のある沈没した軍艦や航空機は、1944年にパラオ全土で繰り広げられた激戦の遺産だ(撮影:ジュリアン・ライオール)

コロナ前、観光ガイドのスウィング・アグオンさんの顧客は、60%が日本人観光客だった。「日本の支配下で困難な時代を過ごしたパラオ人もいるだろうが、その世代で今生きている人はもうほとんどいません。過去の事は覚えておくべきですが、こだわってはいけない。前に進まなければならないのです。今来ている日本人は観光客で、お金を使うことでパラオの経済を助けてくれている。ですから大歓迎です」とアグオンさんは言う。


ユネスコの世界遺産に登録されているパラオのロックアイランド(PIXTA)

強い絆

戦後数十年、日本はパラオの発展に尽力してきた。コロール市のメインストリート沿いには、日本の資金援助で建設された水道システムの完成を記念する石碑があり、世界遺産のロックアイランドにある「クラゲの湖」に向かう観光船のドックには、日本の援助で建設されたことを示す横断幕が掲げられている。また、鮮やかな黄色のスクールバスには、パラオと日本の国旗が握手するイラストが描かれているし、コロール港に係留されている沿岸警備艇には、日本財団からパラオに寄贈された旨のメッセージも記されている。


日本財団からの資金は、パラオ各地で活動する沿岸警備艇の支援にも使われている(撮影:ジュリアン・ライオール)


日本製、日産自動車のスクールバスはパラオのあちこちで見かける。コロール市のスクールバスの多くは、友好の象徴として日本からパラオに寄贈されたものだ(撮影:ジュリアン・ライオール)


日本がコロールの水供給システムの改善に資金を提供してくれたことに感謝を表している碑(撮影:ジュリアン・ライオール)

ペリリュー島南部の国立公園の元レンジャー、68歳のティモシー・ルルさんの父は、戦前、日本人と一緒に働いていた。当時の日本人のことを楽しそうに語る父の姿は今でも鮮明によく覚えている。「父が出会った日本人はみな親切で、現地の人々に危害を加えるようなことはなかったと言っていました。日本の人たちが望んでいたのは、ビジネスを立ち上げて生計を立てることだったのです」

しかし、今から80年前の1944年9月、戦争がペリリュー島を襲い、静かでのんびりとした島のライフスタイルが一変した。1万人以上の旧日本兵が、米国の侵攻を食い止めようとして命を落とした。「戦争がなかったら、この島はいまだに日本の一部だったかもしれません」とルルさんは言う。

「戦後、島は荒廃していました。1946年に島民が戻ってきた時、ゼロからやり直さなければならなかったのです。どこを掘っても地表から60センチほど下に黒い灰の層があって、作物を栽培するのは困難だったのです」


高射砲のあるパラオの日本軍通信本部跡(撮影:ジュリアン・ライオール)

「しかし戦争は終わり、今、日本政府はパラオの再建を支援してくれています。私たちにとって必要なことは、未来に目を向けることでもあるのです」

遺骨収集への支援

2015年4月、当時の天皇陛下と皇后美智子さまは、終戦70周年にペリリュー島を訪れ、慰霊碑に祈りと献花をささげ戦争犠牲者を悼んだ。戦時中、1万人以上の死者に加え、一部の兵士は捕虜となり、さらに34人の兵士は1947年4月まで、日本が20カ月前に第2次世界大戦に降伏していたことを知らずに、密林の中に隠れていた。


2015年4月9日、ペリリュー島の慰霊碑に献花し、日米両軍の戦いの犠牲者を悼む天皇陛下(現上皇陛下)と皇后美智子さま(現上皇后陛下)(代表撮影、時事)

1944年9月のペリリュー侵攻「ステールメートII作戦」開始から80年目の記念日である2024年9月15日の数日前、元航空自衛隊の市原直さん(76)は島にやってきた。日本戦没者遺骨収集推進協会(JARRWC)のチームの一員として、ジャングルやマングローブの湿地帯で戦死した旧日本軍兵士の遺骨収集に参加するためだ。JARRWCは、先の大戦における日本兵の遺骨を日本に送還する事業を厚生労働省から委託されている。


1944年のペリリュー島での戦いで戦死した日本軍人の遺骨収集をするため、9月にペリリュー島に滞在していた航空自衛隊の元一等空佐である市原直さん(撮影:ジュリアン・ライオール)

市原さんは、ペリリュー島南西のアンガウル島近くの戦闘で重傷を負い米兵に助けられた日本兵が書いた本を読んで、戦死した兵士の遺骨を探し出し送還する手助けをしたいと思うようになった。


1000人以上の日本軍兵士の集団墓地とされるジャングルの空き地で、発掘作業が始まった(撮影:ジュリアン・ライオール)

「約1万人の日本兵がペリリュー島で亡くなりました。その遺族は、自分の息子や兄弟、夫に何が起こったのか、いまだにわからないのです」と言う。「彼らの愛する人を故郷に帰す手助けをしたいのです」。まだ多くの人がここペリリュー島に眠っている。

激戦地ブラッディー・ノーズ・リッジとして知られる東側のジャングルで、JARRWCチームは遺骨取集のための掘削作業をした。地表から1メートル足らずのところで最初の遺骨が発見され、頭蓋骨、背骨、骨盤に続いて、腕と脚がすぐに見つかった。

それぞれの位置が注意深く記録され、写真に撮られた後、個々の骨を砂ぼこりの舞う土から慎重に取り出す作業が始まる。遺骨は日本に戻され、うまくいけば、高度なDNA検査技術を使って、家族から提供されたサンプルと比較の上、身元が確認できるかもしれない。

米国の記録によれば、ペリリュー島で戦闘が続いている間にも、米軍によって1086体の遺体が島の集団墓地に埋められたという。数年にわたる捜索の後、それらしき場所が発見されたのが2023年。今回は、その現場から最初の遺骨を収容した。そして間もなく、さらに2体の遺骨が地中から姿を現した。足元には、さらに1000体以上が横たわっていると考えられている。


80年前の戦いから残された砲弾(撮影:ジュリアン・ライオール)

「母の兄はフィリピンで戦死しましたが、遺骨は持ち帰られませんでした」と市原さんは言う。「生前、母はいつもフィリピンに行き、兄が亡くなった場所を見たいと言っていましたが、結局見ることはできませんでした」

「もし、私があと数十年早く生まれていたら、ほぼ間違いなくこの戦争にパイロットとして参戦していただろうと思っているのです」


集団墓地と思われる場所には靖国神社のお札が祭られていた(撮影:ジュリアン・ライオール)

原文=英語。

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