パレスチナにおけるイスラエルの「非人道的」軍事行動に対する若者の抗議活動が、イスラエルを支持して来た米国やヨーロッパのいくつかの国で盛んになり、警官隊が大学の構内に入って鎮圧行動に出る例も出て、国際的注目を浴びている。
表向きは、イスラエルの行動を非難し、それを抑止できない西側当局に対する抗議行動であることは疑いない。しかし、その裏面を探ると、各国における複雑な事情がからんでいることが垣間見える。
米国の学生運動がかつてのベトナム反戦運動を想起させるとの見方について、実質は違っているという意見も根強くある 。しかし、果たしてそうであろうか。実は、双方は似た側面を持つ。それは、政府当局者の「偽善」に対する若者の怒りという点である。
ベトナム反戦運動における若者の怒りの一側面は次の点にあった。すなわち、自由と民主を掲げて、北越の共産政権と戦う米国が、いささか腐敗した南越の政権を支持するのみならず、自ら非人道的殺戮行動をしているという「偽善」に対する若者の怒りである。今日でも、ロシアの非人道的侵略を糾弾する米国当局が、とかくイスラエルの非人道的軍事行動には、いささか甘い態度をとるという「偽善」に対する若者の怒りがあるのではないか。
ドイツをみると、ここでも微妙な形の「偽善」に対する抗議が若者の抗議運動に噴き出ているように見える。ドイツでは、ナチズムによるユダヤ人迫害の歴史もあって、イスラエルの行動に対する批判は、反ユダヤ主義をあおりかねないという考慮から、当局によって抑制されがちである。しかし、自ら迫害をうけた民族こそ、人道を踏みにじることに人一倍慎重であるべきだという正論を言えないようでは、真のユダヤ人擁護とは言えまい。そこに、若者たちが一種の偽善の匂いを感じたとしても無理からぬところだ。
フランスでは、若者のデモに対して一見奇妙な対応が行われている。それは、今回のデモは、米国社会特有の反権力運動に似ており、社会を分断する源となりかねず、そうした行動は、フランスのような市民社会においては、抑止すべきものという考え方である。言い換えれば、近代フランスは、市民の革命によって成立した共和国であり、権力機構は市民のものである、それに挑戦するような行動は許されないという理屈と繋がっている。しかし、ここには、明らかに、政治権力への見方に関する偽善がある。若者たちは、本能的にその偽善に抗議しているとも言える。
ひるがえって、日本の状況をみると、そもそも、中東紛争についての対イスラエル抗議運動が大学構内などで広がっている気配はほとんどない。また街頭でのデモなども、イスラエルの戦闘行為の中止だけが叫ばれており、とかく米国に追随しがちで、イスラエルへの非難に及び腰に見える当局の「偽善」への強い抗議はあまり見かけない。
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