19世紀後半、ニューヨークのマンハッタンを走る初期のEVタクシー「エレクトロバット」。上流階級に人気だった。(Photograph by NEW-YORK TRIBUNE/LIBRARY OF CONGRESS)

19世紀のマンハッタンのにぎやかな通りは、馬の問題が深刻だった。当時、街には推定15万頭の馬が往来し、それぞれが毎日約10キログラムの糞尿を排出していた。

1897年3月27日にニューヨークで開始されたタクシーサービスは、クリーンな解決策を約束するものだった。というのも、ニューヨーク初のタクシーはガソリン車ではなく、電気自動車(EV)だったからだ。「未来のクルマ」と言われるEVは、実は過去に存在していた。

好調なスタート

1890年代にニューヨークの街を颯爽と走り回る電気自動車――そんなイメージは、産業革命の時代にSFを融合させる「スチームパンク」を愛好する人々が描く幻想のように思えるかもしれない。だが自動車の黎明期には、ガソリン車よりもバッテリー駆動の電気自動車のほうが多く売れていた。電気自動車は静かで、クリーンで、運転しやすかったためだ。

「当時のガソリン車は、『朝エンジンがかかればラッキー』という代物でした」と、米国における自動車の歴史を描いた『Are We There Yet? The American Automobile Past, Present, and Driverless(私たちはまだたどり着いていない:米国の自動車――過去、現在、そして自動運転の時代へ)』の著者であるダン・アルバート氏は語る。「音はうるさいし、空気も汚れるし、振動もすごかった。一方、電気自動車はスイッチを入れれば動きましたから」

電気の実用化が始まった19世紀、電気にはどんな問題も解決できる力があると思われていた。『The Electric Vehicle and the Burden of History(EVと歴史の重荷)』の著者で電気自動車の歴史に詳しいデイビッド・A・キルシュ氏は言う。「当時の街の人に、これからの世の中はどうなる、と尋ねたらこんな風に答えるでしょう。『電気はまさしく魔法の力だ。電気は明かりを灯してくれるし、路面電車のけん引だってできる。電気はあらゆる場所に広がっていて、今や私たちをどこにでも連れていく足になろうとしている』」

電気自動車のパイオニア

「テスラ」と言えば発明家ニコラ・テスラのことだった頃、初の商用電気自動車「エレクトロバット」が登場した。ヘンリー・モリスとペドロ・サロームという米フィラデルフィアのエンジニアによって作られたこの電気自動車は、重量は1134キログラムほど、鉛蓄電池で駆動し、最高時速は約25キロメートル。1回の充電で約40キロメートルの距離を走行できた。

さらに2人は、かつてブロードウェイ・ローラースケートリンクがあった場所に画期的なバッテリー交換システムを作り上げ、車両を継続的に稼働できるようにした。カーレースのピットクルーさながらの手際のよさで、作業員がリフトと油圧装置を天井クレーンのように使って車両を巧みに操り、500キログラム近くある使用済みバッテリーを引き抜き、新しいバッテリーを挿入する。この間わずか3分。

「馬車馬の交代に比べると格段に速いし、おそらく現代の私たちがガソリンを満タンにするのと同じくらいの速さでしょう」とキルシュ氏は言う。

マンハッタンでのタクシーサービスは上流階級を中心にたちまち人気を博した。車を売るのではなく、2人で立ち上げた会社エレクトリック・ワゴン&キャリッジ・カンパニーを通じて月単位でのリースや都度貸し出しという方法を取った。

タクシー車両も大幅に増え、1897年時点でわずか10数台だった車両は、1899年には100台を超えた。エレクトロバットは加速が良く、走りも静かで、理想的な街乗り車だった。

ところが、そのスピードと静かさが予期せぬ問題を引き起こす。1899年5月、タクシー運転手のジェイコブ・ジャーマンはレキシントン・アベニューを時速19キロメートルで走り、スピード違反で逮捕された最初の自動車運転手となったというニュースが報じられた。

その数週間後、アッパー・ウエスト・サイドの路面電車から降りた不動産ブローカーのヘンリー・ブリスがEVタクシーにはねられ、死亡した。自動車事故で亡くなった最初の歩行者となった彼は、エレクトロバットが近づいてくるのに気づいていなかった。

バブルの崩壊

モリスとサロームは新たな支援者を探し、富裕層の投資家たちから支援を受ける。その中にはニューヨークの路面電車の電化に貢献したことで知られる投資家ウィリアム・ホイットニーがいた。ホイットニーの指導の下、2人の会社は路面電車やバッテリーの製造会社と合併し、全米をつなぐ電気輸送ネットワークの構築を目指した。

合併後の会社エレクトリック・ビークル・カンパニーは早速、タクシー事業をフィラデルフィアやシカゴ、ボストンといった大都市に広げ、やがて米国最大の自動車製造会社になった。

しかし、こうした急速な拡大戦略は長続きしなかった。ニューヨーク以外での事業はずさんな経営で、日刊紙ニューヨーク・ヘラルドによる1899年の調査で同社への不正融資が明るみに出ると、投資家からの信用を失う。同社の株価は急落し、1902年には事実上、破産状態となった。

力を失った電気自動車

エレクトリック・ビークル・カンパニーの破綻は投資家らに衝撃を与え、電気自動車の未来に影を落とした。

「電気自動車の未来を消したのは、アイデアでも技術でもビジネスモデルでもありません」とアルバート氏は言う。「それに携わる者たちの倫理に反する行動のせいです」

ある火災で車両の大部分を焼失したうえ、1907年には金融恐慌が起きて、ニューヨークのEVタクシーはとどめを刺された。その時期はちょうど、ガソリン車が市場で勢いを増していた頃と重なる。同じ年、ニューヨークの実業家ハリー・アレンが、フランスから輸入した65台のガソリン車でタクシーサービスを始める。1年足らずで、その保有台数は700台に増えた。

ガソリン車は、その後のアメリカの100年を動かしていくのだが、電気自動車は長いまわり道の末、ゆっくりと復活しつつある。2022年、25台のEVタクシーがニューヨークの街を走り始めた。未来のクルマの「再」登場だ。

文=Christopher Klein/訳=夏村貴子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年6月8日公開)

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