「ファイナンシャル・ウェルビーイング」という言葉が注目され始めている。企業で働く人材の価値向上が企業価値の向上につながると捉える人的資本経営の考えが広まる中、従業員に心身ともに健康な状態で働いてもらう、いわゆるウェルビーイング(心身の健康や幸福)が経営課題の一つとして浮上している。ファイナンシャル・ウェルビーイングはその考え方を経済的な側面からさらに深掘りし、「現在および将来にわたって、経済的な満足度が継続し、自律的に人生における選択が可能な状態」を指す。
これまで企業は従業員のライフプランや経済的な問題についてあまり関与してこなかった。だが終身雇用や年功序列を前提とした雇用慣行は崩れ、流動化が進んでいる。以前に比べ、安定した職が生涯得られる保障はなくなった。それだけに、早い段階でキャリア自律のみならず、経済基盤の安定に向けた戦略構築が、働き手に求められている。
一方の企業側も、資産形成やライフプランの考え方など、経済的な側面からの支援が、従業員の不安解消につながることが分かってきた。外資系コンサルティング会社のWTW(ウイリス・タワーズワトソン)が実施した調査によると、経済的な心配は健康上の問題と同等以上に従業員のエンゲージメントに影響を与えることが明らかになっている。
政策も、こうした流れを後押ししている。岸田政権が発表した資産所得倍増プランでは「雇用者に対する資産形成の強化」が掲げられた。金融経済教育や資産形成支援に当たっては、企業等の職域での積極的な機会提供が期待されている。物価上昇に賃金の伸びが追いつかない状況が続く中、従業員の経済的な不安は高まるばかり。従業員の経済的な安心の向上に向けて、企業には構造的な賃上げ推進のみならず、金融教育へのコミットも求められるようになったと言えるだろう。
企業型確定拠出年金(DC)や職場つみたてNISAなど、従業員自らの責任で年金資産を運用する制度を導入する企業は増加傾向にある。一方で、企業年金連合会の「2021年度決算 確定拠出年金実態調査結果」によると、企業型DCの運用商品のうち、元本確保型商品の割合は69.7%。資産形成にリスク性資産を組み入れる考え方が依然として普及しておらず、制度が有名無実化している実態が浮かび上がる。
こうした状況について、金融教育フィンテック事業を手がけるABCash Technologies(エービーキャッシュテクノロジーズ、東京・渋谷)の辻侑吾社長は「従業員の働くモチベーションや退職理由の大半が『お金』に関わる問題であるのに、人事担当者は職場での金融教育の重要性に気づいていない」と語る。
職場での金融教育、いわゆる職域金融教育は、企業が付き合いのある証券会社や信託銀行等などの金融機関へ外部委託する形で、従業員に提供されるケースがほとんどだ。金融機関による企業型DCや持株会など、福利厚生制度に関する説明会自体が、金融教育としての役割を担ってきた。辻社長は、こうした手法自体が「従業員の経済的自立や自走につながらなかった」と指摘する。
ファイナンシャル・ウェルビーイング向上のためには、継続的に従業員が金融知識を活用できている状態が望ましい。したがって、ライフステージやキャリアプランに応じた金融教育を、いかに長い目線で従業員に提供し続けられるかが、ポイントになっている。
職域金融ビジネスの重要性
2024年度から本格的にジョブ型雇用を導入するNECは、従業員の職域金融教育に積極的に取り組んでいる。18年からスタートした企業文化の大きな変革を機に、07年より導入していた企業型DCの拠出割合を引き上げるなど、退職金や年金制度などにメスを入れた。
NECでは、従業員への金融教育として、eラーニングの提供や、マネープランやライフプランについて学ぶセミナーを定期的に開催している。こうした教育を続けた効果はNEC従業員の企業型DCの運用状況に表れており、リスク商品の選択割合も徐々に高まっている。
23年9月には独立系金融アドバイザー(IFA)事業を行うJapan Asset Management(JAM、東京・渋谷)と資本提携。福利厚生として、中立的な資産運用アドバイスサービスの提供を開始した。「IFAは個別のライフプランに合わせて資産運用相談に応じてくれる。JAMのアドバイザーは金融機関の色に染まっていない若手社員が多く、伝統的な金融機関に提供できないサービスが期待できる」と、NEC企業年金基金常務理事兼NEC人材組織開発統括部の本間智克氏は、提携の理由について述べる。
JAMの堀江智生代表は「大手証券や銀行にとって、職域金融教育は短期的な収益を生まないため、本気で取り組むインセンティブがこれまではなかった。しかし、金融教育が国家戦略として推進されるようになって以降、その流れが変わってきている」と語る。
401kプランなどの制度導入が進む米国では、職域金融ビジネスが発達している。一方の日本は出遅れているだけに、伸びしろは大きい。国内金融機関にとっても、参入の余地はまだあるだろう。金融機関向けに金融教育などのソフトウエアを提供するMILIZE(ミライズ、東京・港)の斉藤文緒執行役員は「職域金融教育を金融機関が狙い始めたのは、アドバイスに対してお金をもらうビジネスにシフトしたいからだ」と、ビジネス面での狙いを語る。
政府による資産運用立国の推進や、企業によるフィナンシャル・ウェルビーイング経営の推進を背景に、職域金融教育が今まさに盛り上がろうとしている。企業は福利厚生制度を導入する本来の目的である「従業員の満足度の向上」に立ち返って、長期的かつ継続的に従業員が活用できる金融教育の提供を検討しなくてはならない。
(日経ビジネス 藤本莉早)
[日経ビジネス電子版 2024年2月26日の記事を再構成]
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