「インタビュー ここから」見逃し配信
世界的クライマーが“登山界の裏方”に?
花谷さんは、大学時代からヒマラヤをはじめとする世界各地の未踏峰、未踏ルートに挑み続け、2012年にはネパールヒマラヤのキャシャール(6760m)を南尾根から世界初登頂。この成果が評価され、世界の登山界最高の栄誉とされる「ピオレドール賞」を受賞しました。
そんな世界的登山家が、今、力を入れているのが、“登山道の修復”です。気候の変化や登山客の増加で荒れた登山道の修復を、参加者を募るワークショップ形式で行う取り組みを進めています。これを山の新たな楽しみ方として根付かせたいと考えています。
(花谷さん)
登山道をなんとかしたいという人たちは各地にいっぱいいるんですけど、運営の中心や技術的な指導をする人までみんなボランティアなんです。でもそれじゃ続かないんですよね。僕らのワークショップは有料ですけど、知識を学んでもらう場。いわゆるガイド登山と同じです。
山の保全に関わるっていうのは、エキスパートと普通に登る人との接点になる部分だと思うし、一緒に作り上げていく喜びを共感できる、共有できる場所だと思うので、立場は全くイコールです。そこで触れ合って一緒に作り上げる楽しさがある。そうやって山が豊かになれば保水してくれて、まちの洪水が減ったりする。山を守ることは、山から離れている地域の人も無関係じゃないんです。
(広坂)
そこにはトップクライマーも市民登山家もない?
(花谷さん)
ないですね。あるのは、その山のことを思っているか、山が好きかっていう気持ちだけじゃないかと思ってますね。
6000m超の山で滑落~山と離れた1年
南アルプスのふもと、山梨県北杜市が花谷さんの活動拠点です。花谷さんが運営する宿泊施設に置かれていたのは、ピオレドール賞の盾!
しかし、その栄誉は大きな挫折から始まったそうです。
(広坂)
何があったんですか?
(花谷さん)
2004年に登ったインドのメルーという山で、自分のミスで退却せざるをえなくなったんです。先頭を切って岩壁を登っていたときに落ちて、落ちたといってもロープをつけていたので今ここにいるんですけど(笑)。打ちどころが悪くて足首のじん帯を断裂したんです。6000mを超えている場所から、はって下山しました。
(広坂)
なぜそういう事故が起きたんですか?
(花谷さん)
背伸びしていたんだと思います。メルーのような難しい山に向かう実力も経験も備わってなかった。体を作らないといけないけれどケガで登れないので、生まれて初めて履歴書を書いて、工場で1年ちょっと働きました。今までと全く違う生活になって、これはやっぱり自分の生き方ではないと。もう山に戻れないんじゃないかと思ったりして、すごくしんどい時間でしたね。でも、そういう時間を過ごしたことでメンタルが強くなったという気がするので、むしろ必然だった。その時間があったからこそ今があるのではないかと思っています。
再起のきっかけは仲間からのことば
花谷さんに再び前を向かせたのは仲間からのことばでした。
仲間のためにも自分のためにも絶対登る!と強い決意で臨んだ2回目のメルー挑戦で花谷さんはついに山頂に立ちました。
(花谷さん)
メルーに一緒に行った仲間が「来年もう1回いくぞ!」と声をかけてくれたんです。自分のミスで退却させてしまった仲間が。これはもう行くしかない、何が何でも行ってやる!そう思いました。
(広坂)
2回目は1回目と何か違う心の持ちようでしたか?
(花谷さん)
強い気持ちですね。1回目はその強い気持ちすらなかった。
(広坂)
山頂に立ったときの感慨はどんなものでしたか?
(花谷さん)
涙が止まらなかったですね。そんな気持ちになったのはあとにも先にもその時だけですよ。
原点は神戸・六甲山
花谷さんが生まれ育った神戸。市街地のすぐそばに六甲山系が広がります。
幼いころから、山を愛する家族や地域の人たちに囲まれて育ちました。
(広坂)
神戸の景色といえば、ここ、摩耶山掬星台(きくせいだい)ですよね。
(花谷さん)
うわー、めっちゃ懐かしいですね、そうそう。
(広坂)
初めての登山は何歳くらいでした?
(花谷さん)
小学校に入る前後かな?低学年くらいだったかな?祖父に連れられて…
(広坂)
登山を始めて、どういう形で手ほどきを受けて上達していったんですか?
(花谷さん)
神戸市少年団に登山教室というのがあって、山好きの学校の先生が、子どもたちを山に連れて行って教えてくれるんです。少年団には柔道と剣道と登山があって、登山があるのが神戸やなと思うんですけど(笑)。今もその先生方とつながりがあって、すごく恵まれていたと思いますね。
(広坂)
山をやりたい子を育てる環境があったんですね?
(花谷さん)
六甲山は小学生が登るのにちょうどいいサイズ感なんですよ。簡単に登れるけれどそれなりに険しいところもあってレベルアップしていける。いろいろなルートがあるから、体力がついたら今度はこっち、みたいに選択肢もいっぱいあります。好きになっていく環境があるんですね。
“ヒマラヤキャンプ” 後進に挑戦の場を
登山家としての成長には先輩や仲間の存在が欠かせなかったと考えている花谷さん。
若い人たちのサポートをしようと2015年から企画しているのが「ヒマラヤキャンプ」です。若い登山家が、ヒマラヤの未踏峰で自分たちでルートを切り開き、登頂にチャレンジする場を作ってきました。
(広坂)
後進を育てたいのはなぜですか?
(花谷さん)
僕が育った時代は周りに育ててくれる人がいっぱいいました。でも今はそういう人がいなくなってる気がしていて。地域の山の会が減ったり、コミュニティーの機能がどんどんなくなっていて、そうなると若い人たちのチャンスも減るわけです。すごくかわいそうだしもったいない。僕が成長できたのは、チャンスに恵まれていたからです。ヒマラヤに行きたいと思えばチャンスがあったし、連れて行ってくれる人もいた。今の若い人たちにもそういう受け皿が絶対必要です。
それに、こういう場を作る取り組みは単純に自分が登る挑戦とはまた違った挑戦ですから、すごくおもしろく感じています。
情報のない世界を自分の判断で進む経験
(広坂)
ヒマラヤに若い人に行ってもらった成果は、どう表れてくるといいと思います?
(花谷さん)
ヒマラヤの未踏峰に行くなんて、一生のうちにそう何度も経験できません。しかもそこは、これだけ情報があふれている時代に、行ってみなければ分からない世界。普通にはない世界です。そこで自分で判断して進む。しかもその判断を誤れば、自然が相手ですから最悪死ぬかもしれない。そういう緊張感の中で行動することはものすごく尊いと思うんです。どんな職業に就いても、その後どんな挑戦をするにしても、ベースになる。必ず生きると思います。
山と人をつなぐ
若手登山家と交流したり、自身が運営する山小屋で登山者と触れ合ったりする中で、山を守り、山と人をつなぎたいと思いを強めるようになった花谷さん。これから見たい山の姿は…?
(花谷さん)
山が自分たちの生活を支えていることを感じる人がもっともっと増えてほしい。僕が子どものころは、精神的なつながりとして、もっと山と人は近かったと思うんです。でも、今、それがどんどん離れているんじゃないかという気がします。便利になりすぎたとか社会の変化もありますが、いま一度、人の暮らしと山とのつながりを、もっと深くしたいと思うんですよね。未来はもっと山とまちが近ければいいなと思います。物理的にではなくて精神的に。
(広坂)
今の花谷さんは、どうですか、山道で表現するとしたらどの辺を歩いていますか?
(花谷さん)
どの辺かぁ(笑)。もしかしたら結構登ったかもという気はしてたんですけど、新しい世界を知った瞬間にまたふもとに戻ってきた感じがするんですよ。山でよくあるでしょう?山頂だと思って越えたらまだ先があった、そんな感覚ですね。次、何が出てくるんだろうと思いますし、それをどうやって越えてやろうかと思いますからね。
「インタビュー ここから」見逃し配信
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。