江戸時代の日本で花開いた「和算」は、関数もグラフもない、学校で教わるのとは全く異なる数学だ。力学ならニュートン、分類学ならリンネと、学問の各分野にはその祖と呼ばれる研究者がいることが多いが、和算で言えば江戸時代前期の関孝和(?〜1708)がその人だった。関は、江戸時代を通じて最大の和算の流派であった「関流」の祖と仰がれた数学者だ。しかし関にまつわる史料は少なく、没後になって神格化が進み、何が本当に関の成し遂げた業績なのかがわかりづらくなっている。その一端が、ある1本の巻物によく表れている。

関孝和直筆とされる免許状『算法許状』。関流の門下生に与えられた免許状だ。「目録」以下に並ぶ大量の項目は、この門下生が修めた和算の単元などを示している(日本学士院和算図書:資料番号5907を一部改変)

これは、関孝和の自筆として知られる和算の免許状だ。免許状には、免許を授与された宮地新五郎という門下生が修めた和算の単元や技法が箇条書きで記され、末尾には免許状を発行した師匠の氏名、関が存命中の日付と印鑑、伝授された門人名が記されている。

書かれている内容や名前の筆跡だけを見ると、たしかに免許状は関孝和の自筆であるように見える。しかし免許状の実物を確認すると、関の名前の左脇が大きく破損している。

巻物に破損が生じる場合、通常外側から虫に食われたり、ネズミにかじられたりすることが多い。しかしこの免許状は巻物の一番内側のみが破損し、外側に破損が及んでいない点が不自然だ。

上の免許状末尾の拡大図。「関新助藤原孝和」は関孝和のことで、「新助」は関の通称、藤原は関の本姓を指す。関の名前と日付の間には広い空白があり、丸い「藤原」の印鑑だけを残すようにして不自然な破損が生じている(日本学士院和算図書:資料番号5907を一部改変)

これは、何者かが末尾の部分を破り取った結果だとみられる。破損している箇所にはちょうど1人分、名前を書き込める余地がある。つまり関ではなく、削り取られた人物こそが免許状の真の筆者と考えられる。

関流の和算家にとってみれば、元祖・関孝和の名前が明記されている免許状の存在は流派の権威付けに絶大な効果が期待される。しかし、関孝和の左隣にはもう一人、おそらく別の人物名が記されていた。その別人が免許状の発給者であれば、この免許状の権威は大きく下がる。そこで、誰かが意図的に関孝和の権威を利用しようとして免許状を人為的に破損し、関のものに見せかけたと推測される。

免許状に作為をしてまで関孝和の権威を利用することは、現代の感覚からすれば不正に思えるだろう。しかし安易な断罪はできない。当時の和算家たちは、厳密な歴史の正統性を歴史家の立場で追い求めたのではなかったからだ。むしろ、「流派の論理で歴史を再構築する」という行動原理に突き動かされていた。

関が手がけた著作と長年信じられていたものの、信ぴょう性の低い史料は他にも複数ある。こうした背景には、関の能力を過大に評価したいという和算家や、和算史研究者の想いが見てとれる。

関孝和の業績を探る従来の研究では、この免許状に単元の記述があることを以て、関がそのテーマの数学を扱っていたと考えるものが多かった。免許状に後世の改変の可能性が出てきた以上、こうした研究成果はいったん全て白紙に戻さねばならない。

しかしこうした状況を嘆く必要はない。むしろ、関孝和という一人の和算家を研究する上で考慮する必要のない写本類がそぎ落とされ、本当に必要な著作が洗い出された。これらの著作に基づいて、いわばピントを絞って関の数学の本質を探ることができるようになったといえる。

実のところ、関が存命中に刊行した書籍は『発微算法』(1674年)一点のみだ。関の成果が反映された書籍としては、著者名は門人・建部賢弘(1664〜1739)の名になっているが関と建部の合作とみなせる『研幾算法』(1683年)や、関の没後に門下の和算家によって刊行された『括要算法』(1712年)がある。関の手がけた数学研究が記されていると明確に言えるのは、以上3冊しかない。

近年、これらの史料を注意深く検討していくことで、関がどのような姿勢で数学に取り組む研究者だったかがようやく見えてきた。具体的には、「弧の長さを求める」というたった1つの問題をめぐり、数十年かけてそのための計算式の精度を高めていった探究の様子が明らかになってきている。さらに、そこで関の弟子である建部が重要な役割を果たしたこともわかりつつある。

和算に関する史料は、その数だけで言えば優に数万点を数える。しかし史料情報の多大な蓄積は、逆に研究上の落とし穴にもなる。手もとにある史料を読むことだけで精一杯となると、どうしてもそこで見た情報だけで歴史を語ろうとしてしまうからだ。

研究者が個人で処理できる史料の情報量などたかが知れている。それでも幅広く史料に目を通し、互いを比較参照して、より一般的な知見を目指そうとする態度を捨ててはいけない。数十年の時間をかけて難問に挑み、より確かな数式を追い求めた関と建部の姿勢は、まさにそれを体現しているといえるはずだ。

(電気通信大学 佐藤賢一)

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  • 著者 : 日経サイエンス編集部
  • 発行 : 日経サイエンス
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