イラクにあるシャニダール洞窟で数十年前、ネアンデルタール人の遺骨9体が発見されたことがきっかけで、ネアンデルタール人が意図的に死者を埋葬していたのかをめぐる議論が持ち上がった。(Photograph by Younes Mohammad, Middle East Images/Redux)

石器時代、ほぼ移動生活をしていた人類は、自分たちの縄張りを示す手段をほとんど持っていなかった。しかし、中東のレバントと呼ばれる地域で発見された古代の埋葬跡を分析した結果、現生人類であるホモ・サピエンスとネアンデルタール人がそれぞれ死者を埋葬し、その場所を、自分たちの土地であることを示す目印にしていたのではないかとする論文が9月6日付で学術誌「L'Anthropologie」に発表された。

「死者の埋葬というイノベーションは、実はレバントで始まりました」と、イスラエル、ハイファ大学の考古学者オムリー・バルジライ氏は言う。

レバントとは、現在のシリアの大部分、レバノン、イスラエル、パレスチナを含む地域を指す。バルジライ氏は、同じくイスラエルにあるテルアビブ大学の理学療法士で古人類学者のエラ・ビーン氏とともに、レバント全域にあるネアンデルタール人とホモ・サピエンスの埋葬跡を比較し、死者の扱いについて2つの種の間で共通の習慣があったことを示唆した。

「ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの間には、いくつかの類似点と、大きな相違点がありました」と、ビーン氏は言う。

何をもって埋葬と呼ぶか

古代の埋葬を調査する際、研究者たちは常に、初期のホモ・サピエンスとその近縁種を含むヒト属が意図して遺体を埋葬したのか、それとも何らかの自然現象によって遺体が地に埋もれたのかを検討する。

1950年代と60年代に、イラクのシャニダール洞窟でネアンデルタール人の人骨が発見され、その周囲から古代の花粉の塊が見つかった。これについて一部の専門家は、ネアンデルタール人が意図的に花と一緒に死者を葬っていた証拠だと考えている。

バルジライ氏とビーン氏は、過去にも共同で、イスラエル北部にあるアイン・カシシュという場所で約7万年前のネアンデルタール人の埋葬跡を発掘した。洞窟ではなく平原でこのような跡が発見されたのは初めてだった。

それ以来、研究者たちは、これが意図的な埋葬なのか、もしそうであればほかのネアンデルタール人やホモ・サピエンスの埋葬とどう違うのかという疑問を抱いてきた。

2014年には、シャニダール洞窟でさらに多くのネアンデルタール人の骨が見つかった。(Photograph by Younes Mohammad, Middle East Images/Redux)

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、レバントでおよそ12万年前から5万年前まで共存していた。そしてこの頃から、どちらの種も自分たちの死者を埋葬し始めた。過去の記録を詳しく調べた結果、研究チームは、レバントでこの時期のネアンデルタール人による埋葬跡を5カ所、ホモ・サピエンスによる埋葬跡を2カ所発見した。

ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の埋葬の違い

ネアンデルタール人はほとんどの埋葬を洞窟内で行っていたが、同時期のホモ・サピエンスは、岩陰(岩窟住居)や洞窟前の平坦な場所に死者を葬っていた。どちらの種も、女性、男性、子どもを埋葬したが、赤ちゃんが埋葬された痕跡は、ネアンデルタール人の埋葬跡でしか見つかっていない。

ホモ・サピエンスの遺体は、仰向け、または膝を胸に引き寄せた胎児の姿勢で横向きで埋葬されていた。ネアンデルタール人も、一部の遺体は同じように埋葬されたが、ほかにも様々な姿勢の遺骨が発見されている。

どちらの種も、有蹄類の角や動物の顎骨などの品を一緒に墓に入れていた。そしてネアンデルタール人の場合、加工された平たい石灰石が頭部のすぐそばに置かれていた。枕代わりだったのかもしれない。また、カメの甲羅や燧石(すいせき、火打ち石)で作られた工芸品も入れていた。

一方、ホモ・サピエンスの埋葬跡の近くには、何かを象徴するためと思われるものがいくつか発見されている。例えば赤い顔料は、地位や身分、信仰を表すために体や物に塗っていたと考えられる。また、遠方から運ばれてきた貝殻のビーズも、親族関係、身分、年齢、社会的なつながりを表すために個人が身に着けていたのかもしれない。

「洞窟は財産です」

当時のネアンデルタール人とホモ・サピエンスはどちらも半移動生活をしていたが、毎年同じ時期になると同じ洞窟に戻ってきていた可能性が高い。洞窟は貴重な住まいだったことから、その中や近くに死者を葬ることによって、その場所の所有権を主張し、境界線を示すしるしとしていたと考えられる。

この頃のヒト属は、資源や土地をめぐって互いに競争をしていた。「洞窟は財産です。同じ種同士で集まり、交流することによって、その場所を自分たちの縄張りとするのです」と、バルジライ氏は言う。

もし、ネアンデルタール人もホモ・サピエンスも、埋葬場所をしるしとして利用していたとしたら、両者が文化的な風習を交換していたか、少なくとも墓やしるしがどういう意味を持つかについての理解を共有していたと考えられえる。

誰が埋葬を始めたのか

今回のデータで最古である約12万年前の埋葬跡は、両種のどちらにせよ埋葬跡の可能性があるものとしては最も古い。アフリカやヨーロッパの埋葬跡はこれよりもはるかに新しいため、ビーン氏とバルジライ氏は、これが埋葬の伝統の始まりで、後にレバントからアフリカやヨーロッパに広がったものだと考えている。

アフリカで知られている最古のホモ・サピエンスの埋葬は、ケニアのパンガ・ヤ・サイディ洞窟で発見された7万8000年前の子どもの骨だ。また、ヨーロッパで発見された埋葬跡のほとんどは、6万年前のものかそれよりも新しい。

死者を儀式的に埋葬する習慣は、ホモ・サピエンスがアフリカを出て北に移動し、初めてアジアとヨーロッパでネアンデルタール人と接触しだした後に始まったと、研究者たちは主張する。

また、ネアンデルタール人が5万年ほど前にレバントで姿を消すと、ホモ・サピエンスの埋葬も消滅したという。まるで、競争相手がいなくなったとたんに境界を定めたり縄張りを主張したりする必要性がなくなったかのようだ。

しかし、アフリカの古代人類に関する知識のほとんどはごくわずかな埋葬跡から得られたものにすぎないと、英ケンブリッジ大学の考古学者グレアム・バーカー氏は言う。まだ発見されていない埋葬場所はたくさんあるかもしれないのだ。

例えば、さらに古い人類であるホモ・ナレディが南アフリカの洞窟を埋葬場所として使っていた可能性があることを示した論文が、2023年6月に査読前の論文を投稿するサーバー「bioRxiv」に公開された。その年代は、ほとんどのホモ・サピエンスとネアンデルタール人の埋葬跡よりも10万年も古かった。ただし、これはこれで議論の対象になっている。

ビーン氏とバルジライ氏の新たな研究に関してバーカー氏は、「大陸の地図上にある2つか3つの点から何かの傾向をつかもうとすることには注意しなければなりません」と話す。そして、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が同時に生きていた場所はそれほど多くないと付け加えた。バーカー氏は今回の研究には参加していないが、シャニダール洞窟の発掘に携わった。

知識は少しずつ進化するものと考えがちだが、長い時間枠のなかでは、こうした習慣が必ずしも継続して実践されてきたとは限らないと、バーカー氏は指摘する。「知識は、獲得しては失われ、獲得しては失われを繰り返してきたように思えます」

文=Joshua Rapp Learn/訳=荒井ハンナ(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年11月6日公開)

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