「仙台放送 Live News イット!」では「“あの日”を伝える震災伝承施設」と題して、県内の震災遺構や震災伝承施設を継続的に紹介していきます。今回は気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を訪ねました。津波の被害を受けた旧気仙沼向洋高校の校舎を当時のまま残し、津波の脅威と教訓を伝えています。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館。2019年に開館しました。

千坂紗雪アナウンサー
「当時は気仙沼向洋高校の校舎として使われていました。3階部分まで窓ガラスが割れています。ただ校舎はほとんど形が変わらずに残っています」

海からおよそ500mのこの場所にあの日、地上から12m、校舎4階の足元部分までの津波が襲いました。流れてきたプレハブ小屋が盾になったことで崩壊は免れました。伝承館は、被害を受けた校舎をそのまま保存しています。

迎えてくれたのは館長で語り部も務める及川淳之助さん。伝承館では事前に申し込むことで語り部から話を聞くことができます。施設は伝承館と震災遺構に分かれていてまず伝承館の展示や映像で被害の全体像を知ります。

海岸に立ち並んでいた重油タンクが津波で破壊され、気仙沼の街は黒い津波と火災に襲われました。展示エリアを見学後、震災遺構の校舎に入ります。校舎はコンクリートや鉄骨がむき出しになり、今も潮の香りが残っていました。

校舎の1階には校長室や保健室などがありました。それぞれ元はどこにあったのか分からないものが流れ着いた当時のまま残っています。3階に上がります。津波は3階も天井まで丸ごと飲み込みました。

天井まで津波が来なかった4階にも近くの冷凍工場が衝突した跡や津波の跡など震災の痕跡がはっきりと残っています。死者・行方不明者あわせて1434人に及んだ気仙沼市。しかし、この気仙沼向洋高校では、これだけの被害を受けながら当時校舎にいた240人余りは全員無事でした。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 及川淳之助さん
「東日本大震災では刻々変わる津波情報によって「とにかくすぐに避難しなくてはいけない」と、校庭に生徒を集めて先生方が引率して逃げた」

生徒と教職員はどうやって避難したのか。屋上に置かれたパネルと実際に見える景色を見比べて知ることができます。当時の避難マニュアルには「校舎の上の階への避難」と明記されていましたが、教職員たちの臨機応変な判断で地震発生の5分後には学校を離れて避難を開始。生徒170人の命が守られました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 及川淳之助さん
「マニュアルはマニュアルとしてどこでも作るのが当然だと思う。それを超えたマニュアルにない応用した訓練ができればいい」

校舎の外にも津波の脅威は色濃く残されています。校舎と実習棟の間に折り重なるがれきと自動車。渦を巻いた津波ががれきを積み重ねていきました。

案内してくれた及川さんは今年4月に館長に就任しました。震災当時、壮絶な体験をし、ある思いを持って館長の仕事を引き受けました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 及川淳之助さん
「当時は南三陸消防署に勤めていて、そこで津波に飲まれて3時間後に戸倉で救出されました」

当時の南三陸消防署は津波浸水想定区域に入っていなかったため、及川さんたちはそのまま職務に当たっていました。ただ、想定以上の津波が消防署と署員たちを襲い、署内で津波に飲まれた及川さんは3時間ほど志津川湾を漂いました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 及川淳之助さん
「娘の顔が走馬灯のように出てくるんですよ。その頃みんな20歳以上なんですけど、小さな時、2歳3歳の時の笑っている顔、遊んでいる顔がバーッて出てきて。『だめだ!ここで死んでいられない!』と思ってはい上がって」

生死の境をさまよい助かった及川さん。一方であの日、10人の同僚たちが殉職しました。亡くなった同僚を思い、“あの日”を語れずにいた及川さんですが、13年の時が流れ「自分の体験を伝えることで誰かの命が救えれば」と館長としてあの日の記憶を伝える決断に至りました。

気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館 及川淳之助さん
「今年70歳なんですよ。70歳になってくると先もだんだん見えてくる。今やっておかなくちゃいけないのかなって」
Q、震災遺構に来た人にどのようなことを感じてもらいたい?
「話を聞いたり見たりしたことのその人が語り部になってほしい。一人一人が語り部になって自分の家族や友達、親戚みんなに伝えることによって、1人でも命が守れれば」

震災を自分なりに考え、自分の言葉で伝えていく。気仙沼市震災遺構・伝承館はそのきっかけを私たちに与えてくれます。

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