1985年の日航ジャンボ機墜落事故から39年となった12日。群馬県上野村の御巣鷹(おすたか)の尾根(標高1565メートル)を慰霊登山する遺族の中に、愛媛県今治市の市議、越智豊さん(65)の姿があった。事故で亡くなった姉良子さん(当時28歳)が愛飲していたブランデーを銘標にかけ、写真を飾って手を合わせた。
「年々、ここに来るのがしんどくなる。でも家族の中で姉だけが年を取らず、この山で眠っている。体が動く限りはやっぱり会いに来たい」。越智さんは取材にこう語った。ただ、あの夏から長い間、姉のことも事故のことも、人前では口を閉ざしていたという。
良子さんは社交的で行動力ある「自慢の姉」だった。単身渡米して現地の大学に通い、卒業後はニューヨークなどを拠点に仕事で世界を飛び回っていた。85年の春、アパレル大手「ワールド」への転職を機に帰国。7月には越智さん夫妻の結婚式があり、妻ゆかりさんを交えて3人でゆっくりお茶を飲んだ。「お幸せにね」。別れ際、笑顔で祝福してくれた。
そして8月12日。東京で暮らす良子さんは仕事を終え、帰省しようと羽田空港に向かった。キャンセルが偶然出て搭乗したのが、日本航空123便だった。乗客乗員524人を乗せた機体は御巣鷹の尾根に墜落。越智さんは翌日、両親や妹とともに群馬県へ向かった。
山頂近くで見つかった左上腕と左あごが良子さんのものと特定できたのは、事故から13日後。「これで一緒に連れて帰ってあげられる」。悲しみよりも、ほっとした気持ちが強かった。
今治市の自宅に戻ると、記者がひっきりなしにやって来た。先に帰宅した両親は対応に疲れ切っていた。そうした光景に行き場のない怒りがこみ上げた。家族や知人としか事故を語らなくなった。
怒りとは別の感情を抱くようになったのは事故から30年近くたった頃だ。
慰霊登山で見かける日航社員や記者の姿勢が「昔とは変わった」。事故を直接知らないような若い世代が増えたが、彼らは真摯(しんし)に事故の記憶と教訓の継承に取り組もうとしていた。
遺族の高齢化も進んでいた。越智さんの父親は2009年に亡くなり、高齢の母親も慰霊登山を取りやめるようになった。
「私たちと同じ思いをする人をつくらないでほしいと発信するには、話すことのできる自分が話さなければいけない」。事故からちょうど30年となった15年、公の場で初めて重い口を開き、今治市議会で「二度とこのような事故が起きてはならない」と訴えた。
姉のこと、事故のことを伝えることが空の安全につながる――。越智さんは今、そう信じている。
市議を引退したら、自身の経験を伝える機会を増やすつもりだ。事故を起こさない努力を続け、空の安全を作る輪を広げるために。【日向梓】
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