少しでも他者のために行動できれば、自分にもよろこびがあるかもしれません(写真:freeangle/PIXTA)ほんの小さなことからでいい。「自分に何かできることはあるかな」と考え、少しだけ利他的に行動する。それが、自分にも多くのよろこびや、幸せをもたらしてくれる――。『与える人「小さな利他」で幸福の種をまく』では、『女性の品格』の著者、坂東眞理子さんが、自分中心主義からちょっと離れ、周囲や他者の問題にもう少し目を向けることがいい人生をつくるコツだと説きます。本稿では、同書から一部を抜粋、編集してお届けします。

「与える力」を持つ存在になる

大人になるということは「他人から世話してもらう」与えられる存在から、「他人を世話する」与える力を持つ存在になることです。

子どものころは、自分のことは自分でできるように練習するのが大事です。「自分ではできない」と、すぐに親や教師に頼って、いつまでも世話されることに慣れてしまうとまわりに迷惑をかける人になってしまいます。大人にはなれません。

大人になるというのは、自分のなすべきことを、責任を持って最後まで成し遂げる力と心がまえを持つこと。男性も女性もそれが経済的、精神的な自立をもたらします。そのためにも成長過程では、自分で解決できるように一生懸命取り組むことが重要です。

「他人に迷惑をかけない」というのは日本人の大きな美徳で、だから日本社会は清潔で安全だと、世界中から高く評価されています。

その反面、「迷惑をかけない」ことにこだわりすぎると、息苦しくなります。

日本では「人に迷惑をかけてはいけない」という気持ちが強すぎる傾向があるようです。それが、お互いが迷惑をかけたり、かけられたりするのを許さない社会をつくっているように思えてなりません。

「自立」と「孤立」は違う  

もちろん、なかにはマナーをわきまえず、騒音をまき散らしたり、ごみをまき散らしたりして周囲に迷惑をかけている人もいます。しかし多くの人はマナーを守り、周囲に迷惑をかけないように気をつけながら暮らしています。

公共の場でマナーを守るのはとてもよいことですが、自分がどんなに困っても、助けを求めたら人に迷惑をかけてしまうと考え、がまんするのはやや行きすぎです。

その結果、解決できない問題に直面しても、助けを求めるのを躊躇して、自分だけで抱え込んでしまうのです。助けを求めてもみな忙しく、時間にもお金にも余裕がないので、助けてはくれないと思い込んでいるからです。

最近、とみに語られる「自己責任」という言葉が、これを象徴しています。どんなに困っても人に助けを求めると迷惑をかけることになる、とされるのはつらいものです。

「自立」といえば立派に聞こえますが、困ったときに誰からも手をさしのべてもらえない個人は「自立」しているのではなく「孤立」しているのではないでしょうか。

私は長い間、これからの日本女性は親や夫に保護され、相手の意向に従って生きるのではなく、自立して生きる経済力と精神力を持たなければならないと考えてきました。

しかし、「自立」だけを目指しすぎると、かえって孤立を生んでしまうのではと、内心、危惧しています。

孤立と自立は、どこが違うのでしょうか。

経済的に他人に依存せず、自分で収入を得て生活ができる、精神的には自分でいろいろな問題を引き受け、選択し、判断するというのが自立です。

しかし、ふだんは自立して生活していても、ときにはいろいろな困難や障害に直面して、自分だけでは判断できない、解決できない場合もあります。そんな困ったときに相談できる人、助けを求めることができる人がいるかどうか、助けてくれる組織があるかどうか、それが孤立かどうかを見分けるポイントではないかと思います。

人に迷惑をかけているのは、みんな同じ

日本人がこれほどまでに「人に迷惑をかけてはいけない」という意識を強くした理由のひとつは、江戸時代の農村の「五人組制度」にあるという指摘があります。

これは、隣近所の五世帯が連帯責任を持って年貢を納めたり、共同作業に参加したりするように強制された制度です。1人でも責任を果たさないと全員が罰せられます。

その意識が現代人にも残っていて、日本人は子どものころから「迷惑をかけてはいけない」というルールとマナーをしっかり教えられます。

「ごみを散らかしたら人に迷惑をかけるでしょ」「人と同じ速度で歩かないと迷惑でしょ」「自分のために先生に世話をかけると、ほかのみんなに迷惑でしょ」と、いろいろな場面で注意されます。みんなと同じ行動を取って迷惑をかけないように強制されるのです。

特に職場では、こうした秩序を乱す行動は許されていません。遅刻はチームに迷惑をかける、マニュアルに従わず不良品を出したら大事件、不祥事を起こしたら社長以下謝罪し、ブランドイメージが傷つく……。

学校でも在校生が事件を起こしたりすると、(被害者になっても)学校の責任とされ、社会におわびしなければなりません。

コロナパンデミックのはじめのころは、もし大学で集団感染(クラスター)を起こしたら「社会に迷惑をかけた」とバッシングを受けるので、教職員はみなピリピリしていました。

そういえば、コロナ禍の初期のころ、他県ナンバーの車を見つけると「来るな」と貼り紙をしたり、感染者を出した家族が仲間外れにされたりするという現象も見られました。

マスクをせずに出歩く人には厳しい目が注がれました。「自粛すべきときに自粛していないのは許せない」と攻撃するのです。

「自粛警察」などと呼ばれましたが、「自分はがまんしてルールに従っているのに、ルールに従わないのは許せない」という心理なのだと思います。

人に迷惑をかけないようにする人が多いのと同時に、「人から迷惑をかけられるのは絶対にいやだ」と考える人も増えています。

「寛容な気持ち」を忘れない

『与える人 「小さな利他」で幸福の種をまく』(三笠書房)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

「保育所の子どもの声がうるさい」「高齢者がレジでもたもたしていてイライラする。待たされるのはいやだ」というように、自分の都合だけを声高に主張する人もいます。

「まあ、いいや」と少しだけ寛容な気持ちで受け入れられれば、お互いにラクになるはずです。

人から迷惑をかけられるのをいやがる気持ちは、「自分も迷惑をかけるのはいやだから」となって、困っても助けを求めるのをためらってしまうことにつながります。それはとてもさびしい社会ではないでしょうか。

人間は完全な存在ではありません。知らず知らずに迷惑をかけることもあります。迷惑をかける人がいても、もう少し自己主張を控えて、「頑張ってもうまくいかないときもあるさ」「困っているときはお互いさまよ」と柔らかく受け止められるようになるといいですね。

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