日本人は、どこからやってきたのでしょうか(写真:Ziyuuichi Tomowo/PIXTA)この記事の画像を見る(5枚)「えっ? 最初の人類はアウストラロピテクスじゃないの?」。あなたの教養は30年前の常識のままかもしれません。2022年のノーベル医学生理学賞受賞で注目が集まっている進化人類学。急速に発展するこの分野の最新成果をまとめた『人類の起源』(中公新書)の著者、篠田謙一国立科学博物館長が監修を務め、同書のエッセンスを豊富なイラストで伝える『図解版 人類の起源』より、一部抜粋・編集してお届けします。

日本人の起源はどうなのか

ゲノム研究の発展以前は、日本人の起源も発掘された人骨の形態をもとに研究され、日本列島集団には2つの大きな特徴があると考えられてきました。

1つ目は、縄文時代と弥生時代という時代が異なる人骨の間の明確に認識できる違い。2つ目は、北海道のアイヌ集団と、琉球列島集団、本州・四国・九州を中心とした本土日本人という3つの集団に姿形に区別しうる特徴があることです。

このような違いを説明する原理として、「二重構造モデル」という学説が定説とされてきました。

この学説は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進出した集団が縄文人となり、やがて列島に入らず北上した新石器時代の北東アジア人が渡来系弥生人となってやってきたという説です。

しかし、近年のゲノム分析により、二重構造モデルでは説明できない事実が明らかになっています。

「二重構造モデル」の限界

「二重構造モデル」は、旧石器時代に東南アジアなどから日本列島に進入した集団を基層集団(縄文人)とし、その後、新石器時代に北東アジアから朝鮮半島経由で渡来した集団(弥生人)が入ってきたという単一的な視点が特徴です。

縄文人と弥生人という枠

「二重構造モデル」では、東南アジア由来の旧石器人が縄文人になり、列島に入らず北上した集団は、寒冷地適応を受けて形質を変化させ、北東アジアの新石器人になったとされています。

弥生時代になり、この集団の中から北部九州に稲作をもたらす渡来系弥生人が現れ、稲作が入らなかった北海道や、北部九州から2000年遅れて稲作が始まった琉球列島では縄文人の遺伝的特徴が強く残ることになり、それが両者の見た目の類似性を生んだと考えられています。

つまり、縄文人と弥生人の違いは、集団の由来が異なることに起因するという単一的な視点で説明しているのです。

地域ごとに集団形成の過程が異なる!

地域別に現代日本人のゲノムを比べると、北海道のアイヌ集団、沖縄集団、本州・四国・九州のいわゆる本土日本人の間で違いが見られます。それは、地域ごとに異なる歴史があり、集団成立にも異なるプロセスがあることを示しています。

「地域」という視点の重要性

下の図は、都道府県別の核ゲノムSNP解析を表したもので、近畿・四国などの本土日本の「へそ」の部分と、九州や東北の間に違いが見えます(※外部配信先ではイラストを閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)。

畿内(きだい)を中心とした地域では、渡来系集団の遺伝的な影響が強く、周辺域では縄文人の遺伝的な影響が強く残っており、それを敷衍(ふえん)して、北海道と琉球列島では縄文系の比率が高いはずだと考えるのが二重構造モデル。

しかし、「縄文人」や「弥生人」といった枠が先にあり、地域ごとの歴史や集団の成立過程を考える発想がありません。

(『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院)

ホモ・サピエンスはいつ日本へ?

3つの異なる文化系統

日本列島にホモ・サピエンスがやってきたのは約4万年前。

二重構造モデルでは、彼らが均一な形質の縄文人となって列島内に広がったと仮定されていますが、ゲノム解析によって、縄文人はさまざまな地域から入ってきた集団であり、地域によって遺伝的特徴が異なる集団が居住していたことがわかってきました。

下の図は、日本列島における3つの異なる文化系統です。地域が違えば、歴史も文化も異なり、集団の成立過程にも大きな違いがあるのは自然なことといえるでしょう。

(『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院)

日本列島にホモ・サピエンスが最初に進出したのは、約4万年前の後期旧石器時代。旧石器時代の遺跡は日本国内に1万箇所ほど知られていますが、人骨は琉球列島を除いてほとんど見つかっておらず、旧石器時代人の実像についてはあまりわかっていません。

海を渡ってやってきた旧石器時代人

日本列島への流入のルートとして考えられるのは主に3つ。朝鮮半島から対馬を経由してくるルート、台湾から琉球列島を渡るルート、シベリアから北海道を通るルートです。

この時期は最終氷期に当たるため、現在より海水面が低く、本州や九州、四国、沖縄には船で渡ってきたものと考えられます。

二重構造モデルでは、縄文人は均一な集団と考えられてきましたが、ミトコンドリアDNAの解析によると、旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団で形成され、遺伝的特徴が異なる集団が居住していたようです。

(『図解版 人類の起源』より/絵:代々木アニメーション学院)

日本列島内には、旧石器時代の遺跡は1万箇所ほどありますが、人骨は琉球列島以外ではほとんど見つかっていません。沖縄本島や石垣島で発見された人骨は、ミトコンドリアDNAの分析が行われ、旧石器時代人の系統などが明らかになっています。

遺跡や沖縄の化石人骨のデータ

琉球列島の主な旧石器時代遺跡としては、「港川遺跡」「サキタリ洞遺跡」「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡」「山下町洞穴遺跡」などがあり、近年旧石器時代の人骨が続々と見つかっています。

ちなみに、現在のところ琉球列島以外の旧石器時代の人骨は静岡県の根堅(ねがた)遺跡のものだけ。

港川人以外は、まだ次世代シークエンサを使った解析は行われていませんが、ゲノム情報を得ることができれば、琉球列島の人類史の解明に新たな展開をもたらすことができるはずです。

沖縄の旧石器人は滅んでしまった可能性も?

沖縄本島で発見された約2万年前の人骨「港川1号」は、次世代シークエンサを用いたミトコンドリアDNAの解析も行われています。この人物は現代人につながらずに消滅した系統であると考えられています。

実は、琉球列島集団の現代人を対象とした大規模なゲノム解析によって、沖縄の現代人の祖先は1万5000年前より昔にさかのぼらないという結論が導かれています。

この結果は、港川人のミトコンドリア系統が現代人につながらないとする解釈と整合性があります。

縄文人の地域差が意味するものとは?

『ビジネス教養・超速アップデート-図解版 人類の起源-古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』(中央公論新社)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

形態的には比較的均一だったと考えられている縄文人ですが、ミトコンドリアDNAの系統では、明瞭な東西の地域差が認められています。旧石器時代の日本列島には、進入ルートが異なるさまざまな集団が入ってきたと考えられます。

さまざまな地域から入ってきた集団

縄文人のミトコンドリアDNAの代表的なハプログループは、M7aとN9bです。西日本から琉球列島に多くなるM7aは、おそらく中国大陸の南部沿岸地域から西日本に進入したとされています。

一方、東日本から北海道の地域で多数を占めるN9bは、九州にも特殊なN9b系統が存在。そのため、N9b系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在し、それぞれ北海道経由のルートと、朝鮮半島経由のルートで日本列島に到達したと考えられます。

現代日本人に占めるそれぞれの割合は、M7aが約7.7%でN9bが約2.1%。この割合は、その後の弥生人との混合の状況に関連があると考えられます。

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