感情や勘定に流されずに生きたい―。そう願う時、ハードボイルド小説を読みたくなる。先日、ある直木賞作家の短編集を書店で購入した。  帰宅後、未読の文庫が積み重なる本棚に同じタイトルを見つけた。別の出版社が表紙を替えて発売した新装版を誤って買ってしまったのだ。積読(つんどく)ゆえの重複購入に、硬骨ならぬ筆者はうろたえた。  「本の表紙だけを替えても中身が変わらないと駄目だ」  官房長官や外相を務めた伊東正義は1989年、リクルート事件で退陣する竹下登首相の後継に推され、こう固辞した。結局、後継首相には宇野宗佑が選ばれ、自民党は直後の参院選で惨敗した。  首相の座を目前に動じなかった伊東はハードボイルドを地で行く人物だった。その名言をよそに、表紙の張り替えが奏功した例も少なくない。  直近では2021年秋、菅義偉首相は新型コロナ対策の遅れを批判され、総裁選への再選出馬を断念した。代わって就任した岸田文雄首相が衆院解散・総選挙に踏み切り、自民党は勝利した。  さらに遡(さかのぼ)ること20年。支持率の低迷が続いた森喜朗首相は01年春に退陣し、後継の小泉純一郎首相が夏の参院選で大旋風を巻き起こした。  自民党の表紙を替えるスキルを侮ってはならない。  国政選挙が近づくと、所属議員の生き残りたいという欲求の総和が原動力となり、不人気の首相を降ろし、新たな「選挙の顔」を選ぶ。言い換えれば、時の首相と国民世論の隔たりを是正し、政権与党であり続ける能力である。  伊東発言から35年。表紙の張り替えが繰り返され、政治の中身はどうなったか。  裏金事件で明らかになったのは、少なくとも自民党の金権体質は何ら変わっていないということだ。有権者にそう見透かされ、自民党は4月末の衆院3補選で全敗した。  岸田内閣が支持率低迷から抜け出す気配のないまま、衆院議員の残り任期は1年半となり、来夏の参院選も迫る。従来なら、そろそろ自民党議員の生存本能が蠢(うごめ)き、表紙を替える機が熟してくる頃だ。  しかし、今の自民党からは所属議員が国民の信頼回復に向けて首相や党執行部に改革を迫る「熱」が伝わってこない。つまり、表紙を替える技量の劣化が兆している。  当の首相は権力維持に固執し、9月の党総裁選での再選を諦めてはいない。6月23日の国会会期末に向けて支持率が上向けば、イチかバチかの衆院解散・総選挙を探る可能性もないではない。  党内抗争劇に惑わされないようにしたい。首相が続投するにせよ、代わるにせよ、私たち有権者は選択に備えねばならない。そして、政党や候補者の表紙だけではなく、中身も見極めて投票したい。  こう呼びかける手前、表紙を替えた短編集の中身は味読した。藤原伊織さんの「ダナエ」は掛け値なしの傑作だと請け合う。 

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