ナショナル ジオグラフィック協会から資金提供を受けた研究チームが、かつてヨーロッパと東アジアを結ぶ交易路として栄えたシルクロード沿いの標高2000〜2200メートルの高地で、これまで知られていなかった中世都市の遺跡を発見したとする論文を2024年10月23日付けで学術誌「ネイチャー」に発表した。
ウズベキスタン南東部の山岳地帯でドローンを用いたライダー(LiDAR、反射光を利用して詳細な3D地図を作成するリモートセンシング技術)調査を行い、6世紀から11世紀にかけて繁栄した2つの都市の様子を明らかにしたのは、米セントルイス・ワシントン大学の人類学准教授で、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)であるマイケル・フラチェッティ氏と、ウズベキスタン国立考古学センター所長のファルホド・マクスドフ氏が率いる研究チームだ。
古代都市の一つは、広さ約120ヘクタールの山上の大都市トゥグンブラクで、当時としてはこの地域で最大級の定住地だったと考えられる。もう一つは、そこから5キロメートルほど離れた場所にある、よりコンパクトで密集した都市タシュブラクだ。
これらの都市は、古い都市文明の痕跡が見つかるとは思われていなかった高地に、何世紀にもわたって隠されていた。ペルーのマチュピチュに匹敵する標高で発見された2つの都市は、1000年以上前に中央アジアの辺鄙な山岳地帯で営まれていた都市生活について、新たな光を投げかけている。
高地での都市生活
この地域は、冬は雪に覆われ、強風が吹き荒れるため、現在でも少数の遊牧民しか足を踏み入れない。そんな環境に、これほどの規模の都市が繁栄していたとは想像しにくい。冬が長く、険しい崖があり、起伏の多い高地では、大規模な農業はまず不可能だ。それが、歴史家や考古学者が長年にわたってこの辺境の地域をほとんど見過ごしてきた理由かもしれない。
けれどもフラチェッティ氏のチームは、タシュブラクもトゥグンブラクも、単に高地に存在していただけでなく、繁栄していたと考えている。
どちらの都市にも複数の恒久的な建造物と洗練された都市設計があり、山岳地形を最大限に活用できるように作られていたようだ。ライダーの高解像度画像は、これらの高地のコミュニティーの生活と経済を形作っていた家屋や広場、要塞、道路の様子を詳細に明らかにしている。
大きい方のトゥグンブラクには、尾根に沿った城壁でつながれた5つの見張り塔があり、中央には分厚い石と泥レンガの壁で守られた要塞もあった。
高地に都市が築かれた理由
歴史的に見て、高地に大規模な都市が建設されるのは珍しい。最も有名な例であるマチュピチュ、ペルーのクスコ、中国チベット自治区のラサはしばしば例外と見なされ、極限状態における人間の順応性の高さを示すものとされている。
けれどもタシュブラクとトゥグンブラクは、鉱石を溶かして金属を精錬するのに必要な高温の火を、山の強風を利用して起こすために、あえてこの地に建設された可能性がある。なぜなら予備的な発掘調査により、生産用の炉と思われるものが発見されているからだ。おそらく、古代の鍛冶職人たちが、この地域の豊富な鉄鉱石を、刀剣や鎧や道具に加工していた工房だろう。
「さらに調査する必要がありますが、この遺跡の大部分は、生産活動や、製錬や、その他の火を使った技術のためのものだったのだろうと確信しています」とフラチェッティ氏は言う。「午前中には太陽の熱で地面が温まり、長い山肌を吹き上がってくる強風が自然対流を起こします。金属加工には完璧な条件です」
研究者は、トゥグンブラクの経済は鍛冶やその他の金属加工業によって支えられており、その背景には、周辺に豊富にあった原料とシルクロードへの近さがあったのではないかと推測している。
「鉄や鋼は、馬や戦士とともに、誰もが欲しがる資源でした」とフラチェッティ氏は説明する。「当時は急速な変化の時代であり、誰もが生き残るための力を必要としていました。そして、ここは中世の油田地帯のような場所だったのです」
新たな山岳民族像
何世紀もの間、シルクロードの歴史家たちは、ウズベキスタン地域を支配した遊牧民族や低地の帝国に注目し、高地を周辺的なものとして見ることが多かった。しかし、広大な都市の存在は、山岳地帯にも独自の社会があって、複雑な経済、政治体制、文化を持っていたことを示唆している。
今回の発見により、高地の都市化は中央アジアにおける例外ではなく、より広範で複雑な中世の生活の一部だった可能性が浮上してきた。「通常の農業地域から外れた、大規模な都市が見つかるとは思えないような高地に、非常に大きな政体があったと考えられるのです」とフラチェッティ氏は言う。
彼らがどのような人々だったのかは今後の研究を待たなければならないが、当時一般的だった農耕社会とは異なる独自の生活様式を築いていたことは明らかだ。
「低地とは違った政治的な領域が高地に存在していたことが明らかになれば、中世の中央アジアで活躍した人々について、これまでとはまったく違った像が浮かび上がってきます」とフラチェッティ氏は言う。
「私たちの仮説が正しければ、新顔が登場したことになります」と氏は言う。「彼らは、しばしば歴史に描かれてきたような、馬に乗った野蛮人の群れではありませんでした。彼らは山岳民族で、おそらく遊牧民的な政治体制をとっていましたが、同時に主要な都市インフラにも投資していました。これは、中央アジアの歴史について私たちが知っていると思っていたことを全面的に書き換えるものです」
文=Tom Clynes/訳=三枝小夜子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2024年10月25日公開)
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