早すぎた終息宣言
「感染症に関する本を閉じよ。疫病と戦いに勝利宣言するときが来た」。米国政府の感染症対策の元締め、公衆衛生総局長官のウィリアム・スチュワートは、1967年にこの内容のメッセージをホワイトハウスに届けた。だが、気が少し早すぎたようだ。このメッセージは後々まで皮肉を込めて引用されるはめになった。
この発言のあった年に、西ドイツ(当時)のマールブルグやユーゴスラビア(当時)のベオグラードなどのポリオワクチン研究施設で、新たなウイルス病が発生したからだ。実験用としてアフリカから輸入したミドリサルから感染が広がり、医療従事者、研究者ら32人が高熱や出血などの全身症状に苦しみ、そのうち7人が死亡した。
この感染症は、「マールブルグ病」と名づけられた。今日でもアフリカ各地で散発的に発生、致死率が24%から88%と高いために恐れられている。ダスティン・ホフマン主演「アウトブレイク」をはじめ、多くの映画や小説のモチーフにもなった。
一方、1980年5月8日、世界保健機関(WHO)が天然痘の根絶を宣言し、関係者は高揚感にあふれた。だが、この高揚感は長くはつづかなかった。皮肉なことに、1980年代以降は、史上最も多くの新興感染症が発生することになった。まず、天然痘に入れ替わるように、エイズが想像を絶する速度と規模で地球のすみずみに広がった。これまでに約4000万人の命を奪ったが、依然として流行がつづいている。
その後も、「SARS」「MERS」「新型コロナ」「エボラ出血熱」「C型肝炎」「ニパウイルス」「デング熱」「西ナイル熱」「H5N1鳥インフルエンザ(インフル)」「新型(豚)インフル」などの新たな感染症が出現した。加えて、「エムポックス(旧サル痘)」「デング熱」「黄熱病」「結核」「薬剤耐性マラリア」「ハンタウイルス」「ペスト」「ハシカ」などの再興感染症(再流行した感染症)も次々に息を吹き返している。一部の研究者からは、天然痘の根絶で種痘が廃止された結果、それまで抑えられて天然痘の近縁のエムポックスが復活したとする説も提起されている。
増加する感染症の発生件数
英エディンバラ大学のキャサリン・スミスらのチームは、1980~2013年に219カ国で発生した 215種の感染症計1万2102件の発生状況を調査した。対象となったのは、細菌、ウイルス、原虫などの病原体感染症である。この結果、1980年以降も感染症の発生件数が大幅に増加していることが分かった。
細菌とウイルスはこれら感染症の約70%を占め、長期におよぶ流行の88% を引き起こしていた。さらに65%までが動物由来感染症であり、それらが集団感染の56%の原因になっていた。
ウイルス研究のレジェンド、米国のウイルス学者ジェフリー・タウベンバーガーは「スペイン風邪から100年以上たった今でも、私たちは『パンデミック時代』に生きている。それがいつまでつづくかは分からない」と警告する。
呼吸器感染症の復活
感染症根絶の期待を完膚なきまでに打ち砕いたのは、100余年ぶりの大パンデミックを引き起こした新型コロナだった。コロナウイルスが猛威を振るうのにつれて、呼吸器感染症の流行がばったり止まった。例えば、2020年~21年と2021年~22年の冬季に毎年発生する季節性インフルはほとんど姿を消した。マスク、手洗い、隔離などのコロナ対策の効果で、感染経路が似ている他の呼吸器感染症の患者が減少したためと考えられる。
新型コロナの危険度別の分類が、国内では2023年5月に「2類」から「5類」に引き下げられ、さまざまな規制も解除された。WHOのテドロス事務局長は同年5月5日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて発令した「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態の宣言」を終了すると発表した。
新型コロナの勢いが収まるのにつれて、息を潜めていたさまざまな呼吸器感染症が復活を始めた。異変はまず日本と季節が逆になるオーストラリアで起こり、例年より早い2023年5月初旬から季節性インフルの流行が始まった。中国でも2023年11月の国家衛生健康委員会が、呼吸器感染症の発生率が全国的に増加していると発表した。特に、「インフル」「マイコプラズマ肺炎」「呼吸器合胞体ウイルス(RSV)」などの感染症の増加が著しいという。
マイコプラズマは小型の細菌の1種。風邪に似た症状だが乾いた咳が特徴だ。2010年には世界で約130万人の小児の死亡が報告された。日本では一時的に収まっていたが、増加の兆しがある。RSVも乳幼児に多い呼吸器感染症で、2歳までにほぼ100%の幼児が少なくとも1度は感染するとされる。
後を追うように、米国やドイツなどの欧米でも呼吸器感染症が急増して、新型コロナ、インフル、RSVがほぼ同時期流行し、「トリプルデミック(三重流行)」と呼ばれるようになった。喉に炎症を起こす「溶連菌咽頭炎(ようれんきんこうとうえん)」も、2022~23年の冬季に欧米で大流行した。これ以外にも、「髄膜(ずいまく)炎菌」や「肺炎球菌」による細菌感染症の増加が確認されている。
日本では「咽頭結膜熱」が2023年の夏以降に流行した。11月下旬には医療機関の1カ所あたりの患者報告数は全国で3.5倍になり、警戒レベルの3.0倍を超えた。咽頭結膜熱はアデノウイルスによる感染症で、咽頭炎(のどの炎症)や結膜炎(目の充血)を伴い、39度前後の発熱がある。冬季に小流行することはあるが、基本的には夏の病気だ。プールで感染することが多いとされプ-ル熱と呼ばれたこともある。
しぶとい新型コロナの再流行
収束に向かうかと思われた新型コロナにも新たな変異株の「JN.1亜型」が現れて、世界的な大流行の兆しがある。米疾病予防管理センター(CDC)は、これはオミクロン株「BA.2.86」から派生した新顔で、2023年9月に初めて米国に出現したと発表した。2024年1月末の時点で、新型コロナの感染者の86%を占め、4月24日には95% に達した。米国以外に、日本、フランス、英国、スウェーデン、シンガポール、インドなど71カ国でも感染者の発生が報告されている。
日本では新型コロナが、季節性インフルなどと同じ「5類」に移行したことに伴い、新型コロナの把握は、全国5000の医療機関からの報告をもとに公表する「定点把握」に変わった。2023年10月から11月にかけてJN.1の感染者数が急激に下がったと思ったら、12月に入って再び急上昇を始めた。それによると、1医療機関当たりの感染者数の平均値は、2023年12月25日〜12月31日には、5.79人だったのが、2024年1月29日〜2月4日には16.15人と急上昇した。その後は漸減傾向にあり、同年4月15日〜4月21日には3.64人まで下がった。
JN.1変異ウイルスの特徴について、WHOは「重症化しにくいが、免疫を回避する能力が高まった可能性がある」として、「注目すべき変異株」に指定した。CDCによると、症状は、高齢者や免疫障害者や肺の基礎疾患者以外は、普通の風邪レベルだという。ただ、季節の変化があまり影響しないシンガポールでもJN.1の感染者も増えているので、より多くの国や地域に拡大することを懸念している。
(文中敬称略)
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