トヨタには不思議な売り方をしたクルマがある。1991年に登場したウィンダムだ。トヨタのエンブレムをつけ、トヨタブランドで売られているのにも関わらず、プロモーションでは「レクサス」であることを強く主張したのだ。一体何故なのか? 今回はそのワケを考察していこう。
文:佐々木 亘/写真:トヨタ
■ワールドプレステージクラス! 日本名ウィンダム
1991年9月に初代ウィンダムが登場し、多くの日本人が「レクサス」というブランドを知ることになっただろう。新型車、それも高級セダンであれば芸能人とのタイアップが鉄板だった当時、CMには日本のタレントの姿はなく、アメリカ人の実業家や国際線の機長が登場した。
CMでもカタログでも、しきりに言われ続けたのが、レクサスES300がウィンダムであるということ。セルシオ(LS)でもアリスト(GS)でも、このようなプロモーション活動は行っていない。
海外名があってもそれは隠し、あくまで日本市場向けにプロモーションを行うのが一般的なのだが、ウィンダムはあくまでレクサスESにこだわった。
こうしたプロモーションの流れは、1996年に登場した 2代目になっても変わることは無い。カムリベースのハードトップなのだが、あくまでもES300と兄弟関係にあることが強く発信された。
高級車の新しい世界基準であり、ワールドプレステージクラスと言われたウィンダム。なぜ、プロモーションにレクサスを絡める必要があったのだろうか。
■日本のレクサスブランドを作り上げたのはウィンダム?
ウィンダムの支持は、本物を識る人の間で高まっていった。それは決して大きな波ではないが、着実に大きく成長する波である。
高級車が乗るものではなく運転するものという価値観をトヨタに植え付けたのも、ウィンダムの影響が大きいと思う。グローバルな安全基準を自分自身に課し、快適な乗り心地とスポーティな運動性能を両立させている。
オーナードライバーの正しい感性をユーザーに与え、ウィンダムユーザーは、その質感と性能に酔いしれた。後席に乗りリラックスしながら目的地への到着を待つだけでなく、自分自身の手で運転し、モノの良さを感じる事こそが、高級車オーナーの真髄ということだろう。
こうしたオーナードライバーの考え方や、高級車とオーナーの関係性は、現在のレクサスが掲げているものと、多くの点で一致している。
2005年に開業したレクサスが、今日までの約19年間を無事に迎えられたのは、レクサスブランドの真髄を、トヨタを通して伝え続けたウィンダムのおかげと言っても過言ではないだろう。
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■トップファンを作り上げたウィンダム
ソアラ・アリスト・セルシオと、トヨタから名前を消していったクルマたちは、軒並み国内レクサスで復活を果たしている。現在ではESもラインナップに復活したが、そのタイミングは他のクルマに比べて遅かった。この対応は、いささか良くなかったように感じるのだ。
セルシオ・ソアラ・アリストとウィンダムの根本的な違いは、根強いファンの数である。特にファン作りが上手かったウィンダムは、トヨタのファンというよりも車種のファンを生み出している。事実、レクサスに受け皿が用意されなかったウィンダムを、生産終了後も長きにわたって乗り続けた人は多い。
2018年のES国内導入まで、生産終了から12年以上の歳月が経過した。その間、あれだけ言われた「レクサス」に乗り換えようにも、FFセダンとして用意されたのはHS250hだけ。当時のレクサス販売現場では、ウィンダムユーザーの乗り換えには手を焼いたものだ。
トヨタはウィンダムをきっかけにして、ファンとの付き合い方を学んだと思う。また、根気強く待ち、離れることは無いファンの大きさを知ることができた。
レクサスを掲げ続けたトヨタ車は、自動車販売において忘れてはならない最も大切なものを、四半世紀以上かけて日本に教え続けていたのかもしれない。
エスティマ・セリカ・プリウスαなど、現在も数多く残っている特別なクルマのファンに対して、トヨタがどういう答えを出すのか、今後の車種展開や復活劇にも期待したいところだ。
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