「黄金(おうごん)糖」は、黄金のようにキラキラしたアメだ。シンプルで素朴な味わいで、子どもから大人まで広く愛されている。昨年、誕生100年を迎えたが、戦争で廃業の危機に陥ったこともある。戦後79年の夏、その歴史をひもときたい。
口に入れてみると、少し香ばしさを感じる深みのある甘さが。味はもちろん、四角柱のような形や赤と青のパッケージも、変わらなくてほっとする。製造しているのは「黄金糖」(大阪市住吉区)。奈良県大和郡山市にある工場に足を運び、瀬戸口光生社長から話を聞いた。
黄金糖のもともとの呼び名は、創業者の瀬戸口伊勢松さんが1919年から宮崎で販売していた「金銀糖」とされる。顧客を求めて堺市に出てきて、「瀬戸口商店」を創業した23年に、今の名前に改めた。アメの生地を型に流し込んで固める製法で、表面をなめらかに、気泡をなるべく入れないよう工夫し、黄金のように輝くアメを作った。
現在のように、四角柱の片方の底面が小さく、四角すいの頂点を切り落としたような形になったのもこの時だ。この形のおかげで、アメを型から抜きやすくする「離型油(りけいゆ)」を使わなくても、取り出すことができる。ずっと気になっているのですが、四角い面の少し小さい方が上ですよね? 「いえ、大きい方が上なんです」と瀬戸口社長。えっ、びっくり。「アメの材料を流し込む時に、大きい方が上だから」というのがその理由。知りませんでした。
がれきだらけの街、黄金糖求める人々
苦しい時代もあった。第二次世界大戦中の44年には、原料の砂糖が入手困難になり休業。工場があった堺市は大阪市の南隣で、軍需工場がいくつもあった。このため、45年3~8月に計5回の空襲に遭い、1900人近くが亡くなり、7万2000人以上が被災した。市の中心部は焼き尽くされ、黄金糖の工場と住居も焼失してしまった。
そして終戦――。街はがれきだらけだったが、黄金糖の味を懐かしむ人が次々と訪ねて来た。これに胸を打たれた2代目の瀬戸口一郎さんが操業再開を決意。終戦の翌年には小さな土間を借り、懸命に材料を集めて黄金糖作りを再開した。
一郎さんの娘で、専務の瀬戸口永美子さんは「父は苦労話はあまりしませんでした。きちんと聞いて記録しておけばよかったんですけど」と悔やむ。しかし「あちこちから材料をかき集めて作っていたようです。『ヤミ(闇市)の砂糖を買ったこともある』と言ってましたね」と振り返ってくれた。
材料は今も昔も変わらず、砂糖と水あめだけ。着色料や香料を使わずに高温で煮詰め、黄金のような色と素朴な甘さ、香ばしさを引き出している。添加物を一切使わず、糖質100%でアレルギーの心配がない。
料理の甘味に使うこともできる。ホームページには「いかなごのくぎ煮」や「黄金フルーツ飴(あめ)」などのレシピが紹介されている。晩ごはんのおかずからデザートまで、いろいろ使えるんですね。
上が赤、下が青で、中央部分が透明のパッケージも長年大きく変えていない。「金色のパッケージを私が提案して、九州限定で販売したこともあるのですが、売れなくて」と瀬戸口社長は苦笑い。
変わらないといえば、両端をひねったキャンディー包みも変わりませんね。瀬戸口社長は「個包装の方が保存性は優れているとは思いますが、ご高齢の方やお子さんには開けにくい。だから変えていないんですよ」と教えてくれた。ちなみに、たくさん入っているパックだと、個包装のものもある。
今はアメリカやアジアなど海外でも人気を集めている。特に台湾では、コンビニエンスストアで販売されるほど。添加物が入っていないので、輸出先の食品安全基準に引っかかることもない。世界中の人が楽しめるアメなのだ。
今この瞬間も、世界のあちこちで紛争が続いている。自由にお菓子が食べられるのは、平和であってこそ。一刻も早く、世界中の子どもが平和を味わえますように――。戦禍を越え、世界に羽ばたく黄金の一粒を口にしながら、そう願った。
そっくりの金塊は100万円
黄金糖以外では「スースーしないのど飴(あめ)」シリーズが人気。すーっとする感覚が苦手な人や子どもでも食べやすい。販売中のカリンとライチに加えて、9月にはかぼすも発売される。
オンラインショップでは「白雪ふきん」(本社・奈良市)とコラボした布巾や手ぬぐい、ハンカチなども販売されている。異色なのは100周年の記念に作製した黄金糖そっくりの金塊。100万円となかなか手が出る値段ではないが、そのアイデアに思わずにんまりします。【水津聡子】
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