豪雨が引き起こした激流は、一瞬にして街を飲み込んだ。「1秒遅かったら命はなかった」。67年前の諫早大水害を体験した女性の言葉が響く。630人もの尊い命を奪ったこの災害は、長崎・諫早市の歴史に深い傷跡を残した。水害を知らない、経験していない多くの人々に、この悲劇を伝え続ける取り組みが、今も続いている。

九死に一生を得た体験者の証言

昭和32年7月25日から26日にかけて長崎・諫早地方を襲った豪雨は、1日で588mmを記録する激しいものだった。本明川をはじめとする市内の全ての河川は氾濫し、上流部の至るところで山津波が発生した。土石流が多くの田畑を岩石で埋め尽くし、630人の死者・行方不明者を出し、多数の民家と人々を飲み込んだ。

「多良岳からの山津波の石が、あの小さなホタルの飛ぶようなきれいな川にゴロンゴロンと来て」と語るのは、大渕公子さん(84)である。

大渕さんが住んでいた諫早市目代町
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当時17歳だった大渕さんは、諫早市中心部から約4km山手の目代町の自宅で、祖母と母、兄の4人で大水害を体験した。この場所で豪雨がもたらしたのは大きな石交じりの激しい流れが山間を勢いよく駆け下る「鉄砲水」だ。

大渕さんの証言によると、災害当日の夕方4時頃から、まるで「バケツをひっくり返したような」豪雨が降り始めた。

夜になると雷鳴が轟き、その閃光だけが暗闇を照らす状況だったという。

「(蔵の柱が)グギーグギーて言いよったけん『倒れた』て私が叫んだもんね、本当1秒の命よ」と大渕さんは当時を振り返る。蔵から飛び出した直後、建物は流されてしまった。九死に一生を得た瞬間を今も鮮明に覚えている。

大渕公子さん:座敷の縁にドスンと座った時にはもう(蔵は)流れたもん ほんと今の命は1秒の命。

「川と共生するまちづくり」

水害の後、本明川は国の直轄事業として大規模な改修が進められた。かつて流木をせき止め、氾濫の原因となった「めがね橋」は公園内に移設され、川幅も大きく広げられた。上流ではダムの建設事業も進行中である。

さらに市民が憩いの場として利用できるよう、駅前の公園と河川敷を一体的に整備する取り組みが2024年に完成した。これは、日頃から川を意識してもらい、大雨時の避難にもつなげようという「川と共生」するまちづくりの一環である。

「本明川を語る会」の川浪良次会長は、「いろんな方々にふらっと寄っていただいて防災に対して関心を持っていただきたい」と語り、川により近い場所で語り継ぐ会を開催する意義を強調した。

「1分でも1秒でもとにかく逃げること」

水害から67年が経ち、体験者の高齢化が進む中、若い世代の関心を高める試みも続けられている。諫早東高校では、避難所の開設体験など年間を通じて防災について授業を行っている。

2024年6月には1年生が心肺蘇生法を学んだ。ある生徒は「もしもの時に(この授業は)ありがたい」と話し、加賀義教諭は「災害の影響を少なくするということを危機感をもって感じてほしい」と、防災教育の重要性を語った。

大渕さんは、今は市中心部の八天町に住んでいる。しかし、あの日の出来事から、そばを流れる本明川の水かさには注意を怠らないという。

大渕さんは、自身の体験から得た教訓を「1分でも1秒でも(早く)とにかく逃げること」「高いところ高いところに逃げておくこと」と力強く語る。そして「甘く見てはだめ、水はとにかく低いところに流れてきますからね」と、水の恐ろしさを改めて強調した。

諫早大水害の記憶と教訓を風化させないため、体験者の証言を聞き、防災対策を学び、若い世代に伝えていく。この取り組みこそが、未来の災害から命を守る鍵となるのである。

(テレビ長崎)

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