ステラ・サイエンス・ファウンデーション(SS-F)の新拠点ともつながる横浜市旧市庁舎の再開発現場で

再生医療研究のトップランナー、武部貴則さんは科学を通じて幸せ(ハッピー)と健康(ヘルシー)をともに実現したいと願う。医学の枠にとらわれず、国境も易々(やすやす)と越えて斬新な方法を探る。多くの人を巻き込んでプロジェクトに仕上げ、実行に移す科学者兼プロデューサーだ。

たけべ・たかのり 1986年神奈川県生まれ。横浜市立大医学部卒、医師。同大特別教授、東京医科歯科大教授、大阪大大学院教授、米国のシンシナティ小児病院准教授を兼務する。卓越した若手研究者らを発掘・支援するステラ・サイエンス・ファウンデーションも創設し代表理事を務める。「忘れてしまうようなことは大したことではない」とメモはとらない。

iPS細胞からミニ臓器、英科学誌で発表

遠回りや、人けのない裏道に入るのが好きだ。隠れ家的なカフェを見つけるなど「新たな発見が楽しい」という。しかし、そんな時間をどう捻出するのだろう。大学教授など「五足以上のわらじ」を履き、世界を飛び回る。学会やセミナーでの講演は未来の医療へのワクワク感を抱かせ、専門外の人も引き付ける不思議な力がある。

再生医療分野ではいま、「オルガノイド」と呼ぶミニ臓器の研究が大きな潮流をなす。2013年、その実用化へ弾みをつける成果で脚光を浴びた。使ったのは、さまざまな臓器に育つ可能性をもつiPS細胞。京都大学の山中伸弥教授が世界で初めて作製し、医療応用へ向けた研究が動き出していた。

iPS細胞から目的の細胞や組織を作るのは容易ではない。だが、斬新な方法で、血管が行き渡って生体内と同じように機能する肝臓の「芽」を初めて作り、著名な英科学誌「ネイチャー」で発表した。その後、肝臓、胆管、膵臓(すいぞう)をiPS細胞から連続した組織としてつくることにも成功し、知名度を上げた。

「独り立ち」の機会求め、米国へ

当初は臨床医をめざした。小学生の時、脳出血で倒れた父が医学の力で一命をとりとめたのがきっかけだ。「横浜市民割引の特典にひかれて」横浜市立大学に進む。高校の後輩が父を肝臓病で亡くしたのを見て、肝移植を手掛けようとした。だが移植用臓器の不足に限界を感じ、研究により大勢の人を救うことを新たな目標に据えた。

ネイチャー論文の発表後、科学技術振興機構(JST)の研究助成を受けると、「独り立ち」の機会を求めて米国へと飛び出した。スタンフォード大で客員研究員として再生医療の研究グループを主宰し、そこから難病に苦しむ多くの子どもがいる著名病院のシンシナティ小児病院に移った。

活躍の場は広がった。東京医科歯科大学に、教授として最年少記録となる31歳の若さで迎え入れられた。その直前、横浜市大でも准教授から教授に昇格が決まった。

「腸呼吸」や「人間シミュレーター」、研究成果で治療めざす

研究成果は実用段階に入りつつある。その一つが腸管から酸素を入れて治療する「腸呼吸」だ。肺の機能を腸で置き換える広い意味での再生医療と考えており、創業にかかわったスタートアップ企業などが24年6月、臨床試験を始めた。急性肝不全などの治療機器も開発中だ。肝臓オルガノイドを体外で培養し血液を通して患者の肝機能を補う。5年以内の治療開始を見込む。

23年からは大阪大学大学院教授も兼務し、新たな国際プロジェクトを進める。さまざまな臓器のオルガノイドとIT(情報技術)を組み合わせ、一人ひとりの健康状態や病気の進行を模擬できる、一種の「人間シミュレーター」をつくる壮大な計画だ。

再生医療と並んで力を注ぐのが、ハッピーとヘルシーを同時に実現する「イネーブリング(enabling)」の追究だ。人間に寄り添った柔らかな視点を大切にしつつ、科学的裏付けのある都市開発計画などに生かす。

たとえばスマートフォン用アプリを開発し、ユーザーに町歩きしながら「ここはハッピーな気分」「ここはアンハッピー」と写真とともに投稿してもらった。データを分析すればイネーブリングの条件が見えてくる。

アンハッピーの典型は「道がでこぼこ」「ごみが捨てられている」など。「アンハッピーかつヘルシー」の投稿が多かったのは駅などの階段だ。健康に良くても楽しくないから使わない。そこで階段を上るにつれデザインが見えてきて楽しくなる仕掛けをし、人々の行動を変えるきっかけにした。

持ち株会社的な研究組織、「ありえない出会い」生む

どうやって、これだけの仕事を同時にこなせるのか。「新しいコンセプトやこれは面白いという方向をつかむ勘、既存データを組み替えて新たな解釈をするストーリーテラーの能力がある」と自己分析する。そこによい仲間が集まり、プロジェクトが動く。

思い描くのは「武部ホールディングス」とでも言うべき、持ち株会社のようなラボだ。「隣は他人」という日本にありがちな分業体制とは対極にあり、複数のグループが垣根を越えて連携しながら創造的な研究をする。

産業界の友人らと若手科学者の研究支援などのために設立した一般社団法人ステラ・サイエンス・ファウンデーション(SS-F)も、同様の発想に基づく。セミナーやイベントを通して「普通ではありえない」大学や研究所、企業間の連携を促す。それにより「想像しないような展開を誘発する」。

企業の会費や寄付で運営し、世界レベルの実績がある日本の研究室に国内外の卓越した研究員を迅速に招く。メンタリングや学会発表の支援もする。重視するのは社会実装のためのイノベーションではなく、研究のシーズ(種)を生み出すインベンション(発明)だ。

若手研究者の育成支援、横浜市に新拠点

25年には横浜市に研究施設も開く。三井不動産が旧市庁舎一帯で進める再開発事業の一環で、33階建ての新築高層ビルの6階に設ける「新産業創造拠点」の目玉施設となる。

武部さんにとってなじみ深い横浜市にSS-Fの新拠点ができる

三井不動産との接点は7、8年前、米カリフォルニア州で開かれた先端研究に関する会合に遡る。懇親会で日米の研究環境の違いを話すうちに、居合わせた現社長の植田俊氏が「応援するから日本を何とかしようよ」と熱く語りかけてきた。日本の研究支援で協力しようと意気投合した。

「いろんな人とつながり緩やかに関係をもっていると、物事が動くタイミングがわかる」という。その機会を逃さない。根底にあるのは生きとし生けるものすべてに「つながり」や「連携」があるという思想だ。臓器でも人間関係でも同じ。これこそ祖父が大切にしていた弘法大師の言葉「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)」だと気付いた。横浜の拠点を新たなつながりと発見の場にしたいと考えている。

打ち込んだサックス演奏


学生時代に「人生をかけてやりたい」と思ったものが、研究以外にもある。アルトサックスだ。中学、高校とブラスバンド部に所属し、練習に打ち込んだ。大学ではロックやポップスのバンドでも演奏した(下の写真)。
幼稚園から小学校まではバイオリンの経験もあり、音楽にはずっと親しんできた。サックスは今も自宅にある。だが、忙しくなり、残念ながらもう長いこと吹いていない。
吹奏楽コンクールの会場ともなった神奈川県民ホール付近から横浜スタジアムやJR関内駅の周辺にかけての道は学生時代によく歩いた。懐かしい旧横浜市庁舎があった駅周辺ではいま、再開発事業が急ピッチで進む。
横浜開港100周年記念事業の一環で、1959年に建築家、故・村野藤吾の設計により建てられた旧市庁舎の行政棟は保存・再生され、ホテルが入る予定だ。SS-Fの新拠点を開設するビルと棟続きになる。「海外の研究者に泊まってもらうのにも便利だ」。完成した暁には、横浜で過ごす時間が再び増えるかもしれない。

飼い犬が父の回復導く


日米をまたにかける生活で、両親の住む家に行く機会はなかなかない。だが、顔を出すと、大切にしている飼い犬の「チップ」(下の写真)が迎えてくれる。久々に会ってかわいがっていると「心が完全に洗われる思いがする」。あまりにかわいいので、このときばかりは研究のことも頭から離れるという。
両親はもともと犬が大好きで、過去にも飼っていたことがある。チップが実家にやってきたのはコロナ禍の少し前、肺の病気で治療を受けていた父が集中治療室(ICU)を出たころのことだ。体力が著しく低下してしまった父の運動を促すきっかけにもなれば、と飼い始めた。効果はてきめんで「父はみるみる元気を取り戻した」。
ハッピーであることを入り口として散歩や会話など、ヘルシーにつながる行動が知らず知らずのうちに生まれる。日ごろ提唱している健康への新しいアプローチが「ある意味、実証されたのではないか」とも感じるそうだ。

安藤淳

岡田真撮影

[NIKKEI The STYLE 2024年8月4日付]

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