出入国在留管理庁によると、2024年7月1日現在、正規の在留資格を持たないで日本に滞在する人(非正規滞在者)の数は7万7935人に上る。

非正規滞在者を巡る日本の政策をめぐっては、入管施設でスリランカ人女性のウィシュマさんが亡くなるなどさまざまな問題が生じており、グローバル化した現代社会に適合していないといった意見も少なくない。

そんな一方で、その存在がほとんど話題に上らないのが、海外にいる日本人の非正規滞在者だ。

どの国にどのぐらいいるのか。その実態は明らかになっていないが、ザ・ノンフィクション取材班は、フィリピンで非正規滞在者として暮らしているひとりの男性に出会った。

10年にわたってその姿にカメラを向けてきた男性は今、70代半ばに差し掛かっている。男性は人生の黄昏に、どのような決断を下すのだろうか。

数奇な“第二の人生”

ディレクターが初めて平山さん(当時64歳)に出会ったのは2014年。長身でがっしりとした体躯、老いてなお強い眼差しを持った平山さんは、フィリピン・マニラ郊外で乗合バスの呼び込みの仕事をしてわずかな日銭を稼いでいた。

2014年、ディレクターと出会った頃の平山さん
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聞けば、そのさらに10年前、日本に家族を残してフィリピンへ渡ったのち、ずっと行き当たりばったりの暮らしを続けてきたという。

平山さんには、現地で出会った内縁の妻、そして2人の間に生まれた幼子もいた。困窮しながらも、穏やかで幸福そうな暮らしに見えた。

ただその胸に内には、日本への秘めた思いも募っていた。

「生まれ故郷と日本の家族が恋しい…」 

妻子を捨ててフィリピンへ

九州出身の平山さんは、日本でトラックの運転手や土木作業員をしていた。

妻との間に2人の子どももいたが、その子どもの学費をギャンブルに使い込んでしまうなどして、妻との口論は絶えなかったそうだ。

日本でトラック運転手をしていた平山さん

そして家庭の不和と時を同じくしてフィリピンパブにハマる。それが彼の人生を大きく変えた。

知人から「フィリピンに日本料理店を開かないか」と誘われたのだ。

フィリピンに何度か行ったこともあり親近感を持っていた平山さんは、ほうぼうからお金をかき集め、2004年に渡航する。

ところが、その知人に騙された。

平山さんが用意した金を、カジノに注ぎ込み全て溶かしてしまったという。知人は一人で帰国し、平山さんは異国の地で一文無しになった。

「何で俺、こんな所でこんなことしてるんだろう。何回か、もう死んだ方がマシだなと思ったことありますよ」 

フィリピンで生きていく

当時、平山さんは英語もタガログ語も話せなかった。寝る場所も、食べる場所もない。

途方に暮れる平山さんに手を差し伸べてくれたのは、貧困地区で暮らすフィリピンの人々だった。路地裏の住人は平山さんに食べ物を分け与え、寝床を貸してくれたという。

フィリピンには、相互扶助の慣習が色濃くある。特に貧しい人々の間には、お金持ちからはむしり取ろうとするが、自分よりも貧しい人には分け与えようとする、ある種の連帯意識のようなものがあるように見えた。

平山さんはしばらくのあいだ、何軒かの家を渡り歩き居候をさせてもらう暮らしを続けた。やがて、地元で紹介されたのが、乗合バスの呼び込みの仕事だった。

フィリピンには、ジープを改造した乗合バスがあり、庶民の足となっている。そのターミナルで、行き交うバスへ客を誘導し、運転手からチップをもらうのが呼び込みの仕事だ。

フィリピンでも最も稼ぎの少ない仕事の一つ。しかも非合法なので、警察に取り締まられ、留置場に入ったこともある。

また呼び込み同士の縄張り争いもあり、不慣れな平山さんは他の呼び込みとトラブルになることも少なくなく、時には殴られることもあった。

地を這うような日々が続く中、平山さんに転機が訪れる。

乗合バスを使って工場に通っていたテスさんと恋に落ちたのだ。平山さんは、テスさんに毎朝パンを渡して口説いた。テスさんは、その優しさに惹かれたそうだ。

ほどなく2人の間にはマリコが生まれ、テスさんの前夫との子・プリンセスや親戚ら7人が、一つ屋根の下で暮らし始めた。

「日本とフィリピンで全く違う人生を生きている」と話す平山さんだが、日本に残した家族や親類は、平山さんがフィリピンにいることも、新しい家庭を築いたことも知らなかった。

貧しくも、幸せな日々

フィリピンでも家族を養うのは楽ではなかった。

平山さんとフィリピンの家族

電気料金を払えないことも多く、自宅はたびたび停電。新しい仕事を始めようと、テスさんと屋台での揚げ物販売に乗り出すが、屋台ごと盗まれてしまう事件もあった。

テスさんのバスマット作りの内職だけが収入源だったこともある。

けれど、平山さんに悲壮感はない。天性のタフさゆえ、とも言えるが、暮らしそのものに安らぎがあるようにも見えた。

家の前に立つ大きく枝を広げたマンゴーの樹。

実をつけると、長身の平山さんがカゴをつけた竿を伸ばしてもぎ取って家族で食べる。冷たくないビールを夜風に当てて冷やし、テスさんとゆったりとした時間を過ごす。

子どもたちも朗らかで、プリンセスは笑顔で料理や家事をこなし、幼いマリコは平山さんに抱きついて甘えた。

「お金はないけど、家族で仲良くやってますからね」

日本でせわしない日常を送っていたディレクターは、日本の家族を顧みず好き勝手に生きる平山さんの姿に戸惑いながらも、どこか羨ましく感じることもあった。

日本に残された家族の思い

取材班は、日本の家族のことが気になった。だが平山さんは、家族とは連絡をとっていない。ただ手元に戸籍謄本の写しを持っていて、本人の承諾のもと、それを手掛かりに家族の行方を探した。

2016年10月、取材班は娘のKさん(仮名)を見つけ、喫茶店で面会した。ただKさんは複雑な表情を見せていた。

「優しい父でした。何か事件にでも巻き込まれたと思っていたんですよ。まさかフィリピンにいたなんて」

兄弟は2人いて、弟は、家族を捨てた平山さんを許していないという。

Kさんは運送関係の仕事をしているが、生活は決して楽ではない。父に会いたいという気持ちはあるものの、フィリピンを訪ねることも、平山さんを日本へ迎えることも、今はまだ考えられないと話した。

言葉の端々に垣間見える、父への複雑な思い。

取材班は、平山さんにも娘さんと連絡がついたことを伝えた。平山さんは喜んだが、日本に帰ってみてはどうかという提案には、少し表情を曇らせた。

「日本に戻っても、娘は面倒を見てくれないだろうし、孤独死するだけです」

平山さんと内縁の妻・テスさん

現在日本では、年間およそ6.8万人が孤独死していると推計されている。

地縁、血縁が薄れて、高齢者が孤立化する日本。

一方で、途方に暮れた平山さんへ自然に手を差し伸べてくれたような互助の仕組みが色濃く残るフィリピン。平山さんがなぜフィリピンに滞在し続けるのか、少しわかったような気がした。

一攫千金の幻に取り憑かれた男たち

2016年、取材班が平山さんの自宅を訪れると、日本人の居候、宮崎さん(当時76歳)がいた。平山さんと同じように日本から流れてきて、フィリピン人の家を転々としていた。

いっときはパブを経営するなどして羽振りが良かったが、「埋蔵金探し」にお金を注ぎ込み、所持金がそこをついたという。

痩せ細った身体、顔に刻まれた深い皺。しかし、目だけは爛々と光っている。カメラを向けると、怪しげな儲け話が始まった。

「3億円相当の金塊を100万円で入手できる。それを転売すれば…」

何かに取り憑かれたような口ぶりだった。金塊の購入資金100万円を用立てようと日本人の知り合いに持ちかけ、お金が振り込まれるのを待っているのだという。

そんな宮崎さんを、平山さんはどこか冷静に見つめていた。

「明日にでも振り込まれる」。宮崎さんはそう語ったが、それから3カ月後にディレクターが訪れた時も、まだ居候をしたままだった。

もちろん資金は振り込まれていない。

テスさんはそんな居候に文句を言うこともなく食事の世話をし、平山さんは宮崎さんの深刻な表情をよそに、飄々と日本の歌謡曲を歌っていた。

2017年1月、宮崎さんはお金を受け取れないまま亡くなる。

平山さんは生前の宮崎さんに生活費としていくらかのお金を貸していた。それを取り戻す目的もあり、宮崎さんにお金を送ると約束していた日本人、「伊藤さん」を訪ねてみることにした。

バスに揺られること7時間、約束の場所に現れた伊藤さん(76)もまた、一攫千金の夢に取り憑かれたひとりだった。

「フィリピンには、戦時中の日本軍や、マルコス元大統領が残した財宝が眠っている」

「ピラミッドパワーで、地下資源の場所がわかる」

「それが見つかったらいくらでもお金を支払える」

半裸で、荒唐無稽に思える夢を語り続ける伊藤さんの口を見ると、多くの歯が抜けていた。平山さんも、宮崎さんも、フィリピンでの取材中に出会った日本人はみな歯が抜けていた。

伊藤さんもまた、その後まもなく亡くなった。

宮崎さんも伊藤さんも、はっきりとした死因はわかっていない。2人とも、病院に行っていなかった。非正規滞在者は医療保険に入っておらず、病院へ行きたがらないし、行きたくても行けないこともある。

楽園に見える暮らしの暗い影がそこにあった。

愛するテスさんの死

コロナ禍で取材は一時中断していたが、2023年8月、4年ぶりに平山さんを訪ねると、その傍らに、小さな遺影が飾られていた。つい3カ月前に内縁の妻テスさんが亡くなったのだという。

まだ53歳だった。

テスさんの墓参りをする平山さん

「元々、心臓に持病を抱えていたが、家族のお金を使うまいと、病院へ通わなかった」と平山さんは言った。

「テスを日本に連れて行くと約束した。でも約束を守れなかった」

そう話す平山さんは、73歳になっていた。

足も弱り、杖が無くては歩けない。愛する人を失い、自身の老いも止められない中、思うのは故郷のことだった。

平山さん自身の健康が心配になり、ディレクターは帰国を提案してみた。

しかし平山さんはオーバーステイ。出頭すれば強制帰国となり、再びフィリピンへ戻ってくることは極めて難しくなる。

13歳になった娘のマリコ、テスの前夫との娘プリンセスはどうなるのか。何よりテスの墓もフィリピンにある。

平山さんは、悩んだ結果、日本には帰らないと決めた。

車椅子を路地裏に止め、行き交う人を眺める平山さん。

人生の黄昏を迎えたその目には、寂しさと諦めと納得が入り混じった、複雑な色が映り込んでいるように見えた。

娘たちを見つめて

現在、平山さんはさらに足が弱って、外出することもままならなくなったという。

電話で近況を尋ねたディレクターに「監獄にいるみたい。自分はここに必要ない。いてはいけない人間だと感じている」と話した。

平山さん

救いは、2人の娘の存在かもしれない。

プリンセスは、日系企業に就職したのち転職し、今はコールセンターで経理の仕事をしている。いつか起業するのが夢だという。

中学2年生になったマリコは、科学と英語が得意。将来は医療関係の仕事に就きたいそうだ。

平山さんの流浪も、私たちの取材もまだ終わってはいない。

ディレクターは、近いうちに再びフィリピンへ渡る予定だ。
 

(取材・記事/粂田剛)

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